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- 福山城築城400年記念事業実行委員会事務局(文化振興課内084-928-1117)
- ID
- 202201
2022年は1622年に初代藩主水野勝成が福山城を築城して400年の年です。
それは同時に「福山」というまちが誕生して400年ということでもあります。
こうした大きな節目に福山城をはじめ、
市内全域を会場に、本市の歴史文化資源の価値や魅力を
再認識し、磨き上げ、発信することで、「城があるまち福山」をみんなの誇りとします。
日本城郭の最高到達点であり最高傑作
~福山城の価値・魅力~
西の守りの要
福山城は五重天守をはじめ本丸・二之丸には数多くの櫓や城門を配する10万石では考えられないほどの規模の巨城でした。これは西国鎮衛として、西日本の外様大名に幕府の権威を示すためだといわれています。
「西国一」の偉観
福山城は3段の石垣で構成される平山城として、ひな段状に本丸・二之丸そして数多くの櫓や城門を建て並べていました。江戸時代の軍学では「一二三段」と呼ばれ、城の理想像とされたものです。本丸南正面の高い石垣上には、伏見城から移築された伏見櫓や筋鉄御門(ともに重要文化財)、御湯殿などが並び、さらに格式を高めていました。
「全国唯一」の天守北側
鉄板張り
福山城の北面は間近に城外が迫っていたため、敵からの大砲弾の直撃に耐えられるように天守は1階から4階までが総鉄板張りでした。城門の扉や柱に鉄板を張り詰めた例はありますが、天守の外壁を鉄板張りにした例は全国唯一です。
福山城400年の歴史
水野勝成の入封と福山城の築城
徳川家康の従兄弟である初代藩主水野勝成は1619(元和5)年、西国鎮衛の拠点として備後東南部・備中西南部の計10万石を得て、大和郡山より入封。1622(元和8)年に福山城を築き、この地を福山と名付けました。一国一城令が徹底していたこの時期では異例の築城であり、近世城郭では最後の大規模な新規築城となりました。
江戸中期から阿部家10代の居城に
水野家5代藩主の早世により、福山藩は一時天領(幕府直轄地)となり、その後1700(元禄13)年に出羽国より松平忠雅が入封するも10年で転封。1710(宝永7)年、下野国宇都宮藩から阿部家初代藩主阿部正邦が入封し、以後10代正桓まで福山城は藩政の中心となりました。歴代藩主の中でも7代正弘は25歳の若さで老中に抜擢され、ペリーの来航、日米和親条約の締結といった開国問題を老中首座として指揮したことでも知られています。
地元有志に守られ戦前は国宝に
明治維新後、福山城は廃城令により天守・伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿などを残すのみとなりました。本丸は福山公園として整備されましたが、天守の破損などが進んだことから、福山町(当時)の有志が公園の委譲を請願。1896(明治29)年に認可され、天守・伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿の修理が行われました。昭和に入ると文化的価値が再評価されて国宝指定に。しかし1945(昭和20)年の福山空襲により天守など多くの文化財が焼失しました。
戦後の福山城の復興
市街の復興が進む中、本丸・二之丸が国の史跡に指定され、本市が同地を管理。1966(昭和41)年に市制施行50周年記念事業として、当時の市民の寄付により天守・月見櫓・御湯殿を再建しました。以来、戦災を免れた伏見櫓・筋鉄御門・鐘櫓とともに、本市のシンボルとして市民に親しまれています。
そして2022年、令和の大普請を経て築城400年記念日を迎えます。