福山藩阿部家第九代藩主 阿部正方は,1848(嘉永元)年に江戸藩邸で生まれ,1861(文久元)年に14歳で福山藩主となりました。1867(慶応3)年に福山城内にて亡くなるまで,治世は7年と短いものの,幕府では京都警衛の任に当たり,2度の長州征討では、譜代大名として自ら兵を率いて出陣しています。
正方は藩財政の立て直しを図り、1865(慶応元)年には川口沖に大規模な新田として新涯の造成を始めました。そしてこの干拓事業の様子を度々見に回ったようで,次のような歌がいくつも歌が残っています。
「手城と簑島との間なる干潟を埋づむとて里人らの石荷ない土はこびなどするをみて」と題して
いかばかり 民のちからや つくすらん 底ひもしらぬ 深きうな(海)路に
「文月二日手城の海辺に舟を出して諸人の泳ぎ,こま(馬)などを打渡す業を見て」と題して
ますら男が みの島遠く 打渡す すげの小笠ぞ おおしかりける
他にも松永の塩田や引野の山,鞆の浦などくまなく領内を巡見して歌を詠んでいます。
「村めぐりして」と題して
駒とめて みつつおもふ 国民の 休らひぬるか やすらはぬかと
これらの歌からは領民を気遣う正方の思いが伝わってきます。曙町の塩崎神社境内にある石碑には,新涯造成を始めた正方の功績をたたえる文が刻まれています。
正方は1869年(明治2年)に北本庄の小坂山に埋葬されました。墓は上部を玉石で覆った土饅頭形の神式墓で,墓域は2017(平成29)年に福山市史跡に指定されました。阿部家歴代の藩主の中でただ一人福山に眠っています。
新涯村墾田紀功碑(塩崎神社境内)
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