いざ働き始めたものの、目の前の仕事に忙殺されて、なんだか楽しくない……。そんな悩みを抱えている若手ビジネスマンも多いと思います。大学卒業後、三井物産に23年間勤務し、ホリプロ取締役、リンクステーション副社長を経て、現在はビジネス書の執筆、講演、研修活動を行う、企業風土改革コンサルタントの古川裕倫さん。
著書『仕事を楽しめる人は「忙しい」と言わない』は2020年に「第6回ビジネス書大賞」(主催:世田谷ビジネス塾)を受賞するなど話題の一冊です。今回はそこから、慌ただしい現代ビジネスパーソンに向けた福沢諭吉と渋沢栄一の幸福論についての考察を紹介します(以下、同書より抜粋)。
福沢諭吉の言う幸福論は「自分を高める」
福沢家は九州中津藩(大分県中津市)の武家で、福沢諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)中津藩の大坂蔵屋敷に生まれました。ペリーが黒船を率いてやってくる約20年前です。
福沢諭吉は父の死により大坂から中津に戻り、漢学という中国の学問( 四書五経)を学び、いわゆる儒学哲学の基本をしっかりと身に付けました。儒学の基本のひとつに志を高く持つことがあり、江戸時代から第二次大戦前までは大切にされた考え方です。
福沢諭吉はなんといっても、驚くような勉強家であり努力家でした。ペリー二度目の来航の年、安政元(1854)年に福沢諭吉は長崎に留学、オランダ語、蘭学を学びます。翌年、福沢諭吉は大坂に移り、儒学者であり医者の緒方洪庵が立ち上げた「適塾」に入塾し蘭学などを学び、2年後に塾長となりました。
緒方洪庵の「適塾」で福沢諭吉が学んだこと
緒方は平等主義者であり、「学問の前では人は平等」として、身分ではなく学業の成績のよい順番に塾生を座らせました。その後福沢諭吉は英語も勉強し、欧米使節として三度洋行して西洋から学び、維新後は独立して慶應義塾を始めました。そして『学問のすすめ』『福翁自伝』『西洋事情』など多数の著書を残しました。
福沢諭吉は、「個人の独立なくして国家の独立なし」と言いました。国民一人ひとりの自覚なくしては、国としての目覚めもない。それがなければ、国が発展しないばかりか、外国に対しての日本の立ち位置もない。反対に自分自身や自国に対する自覚や誇りがなく、外国流だけを見ているのは浮き草のようであるとも言いました。
幸せとは「一生を貫く仕事を持つこと」
福沢諭吉の幸福に関する言葉があります。
「世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つこと。世の中で一番惨めなことは、教養のないこと。世の中で一番寂しいことは、仕事のないこと。世の中で一番醜いことは、他人の生活をうらやむこと。世の中で一番尊いことは、人のために奉仕して少しも恩に着せぬこと。世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つこと。世の中で一番悲しいことは、嘘をつくこと」(福沢諭吉の心訓より)
心訓は福沢諭吉の言葉ではないとの説もありますが、真理を突いた言葉だと思いますのでご紹介しました。一生を貫く仕事を持つことがいかに幸せであるかわかります。
明治時代の大ヒット書籍『学問のすすめ』の中の有名な一節、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が、人が平等であるということはご承知のとおりです。人は平等であるのに、なぜ成功する人、しない人がいるのか、なぜ貧富の差があるのか。それは、学問をしているか、していないかによるというのが、『学問のすすめ』の骨子です。
人が最大の幸福を得るには
福沢諭吉は、こうも言っています。「教育の目的は、自分の人生を立派に送り、自分を高めることである。これは人が最大の幸福を得ることにつながる」。
福沢諭吉は、日本が開国する前に三度も洋行しており、そのたびにどっさりと書籍を買い込んできています。当然、先のベンジャミン・フランクリンの自伝も読んでいると思いますが、福沢諭吉も「自分の人生をやり直すとすれば、今生きてきた人生をそのまま繰り返したい」と言っています。
普通の人なら(私ももちろんそうですが)、もう一度人生をやり直すことができるなら、「無駄な時間をたくさん使ったので、これとこれをやりたい」と違う人生を選ぶのでしょうが、福沢諭吉は有益な人生を送ったのでしょう。
渋沢栄一の言う幸福には「夢」が不可欠
渋沢栄一は、江戸時代末期の天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。生家は畑作、養蚕、藍問屋を営む農家でした。幼いときから勉強好きで、7歳の頃から『論語』を読んでいました。14歳の頃には大人並みの経営手腕を持っていたといいます。
彼は江戸末期から明治維新という激動の時代に生きました。西洋列強の脅威に対するために富国強兵が必要であるが、今の支配階級(武士)ではいけない。むしろ民間の力を結束させ活用しなければならないと考えました。そうしないと、軍艦や大砲を買うことすらできない。ことなかれ主義ではダメであり、当事者意識を持った民間が、自らの信用を高めて国力を上げるべきだと思っていました。
27歳のときに洋行、欧州各国で先進的な産業や社会を実見し、大政奉還にともない帰国しました。銀行をはじめ東京瓦斯(ガス)、東京海上保険(現東京海上日動火災保険)、王子製紙(現王子ホールディングス・日本製紙)など、多くの企業や教育機関、社会公共事業の設立にかかわり、のちに資本主義の父と呼ばれた実業家、慈善家となりました。
信用第一を唱えた渋沢栄一
江戸時代においては、支配階級(武士)が商売をすることは「卑(いや)しい」と見なされていましたが、渋沢栄一は論語の精神を持ってビジネスを進めるべきと『論語と算盤』を出版し、道徳と経済の両輪が幸福を持続するイノベーションであるとしました。渋沢栄一は、信用第一を唱えました。
「信用は実に資本であって、商売繁栄の根底である」。現代もそうですが、企業にとって大切なものは信頼であり、それは財産である。商売の繁栄の基礎であるということです。
利他の精神についてもこう言っています。「単に自己の利益のみを主とし、利益を得んがために、商売をなすというならば、すなわち報酬を得たいために、職務を執るというに同じく、つまり報酬さえ得れば、職務はどうでもよいことになる」。
渋沢栄一は、幸福を求めるには夢がなくてはならないと、この言葉を残しました。
「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず」(渋沢栄一の夢七訓より)
「運がいい」のはこういうこと
筆者で幸福は自分の思い次第であると申し上げていますが、渋沢栄一も「世の中の事はすべて心の持ちよう一つでどうにもなる」という言葉を残しています。運についてもこうです。
「世人は、一も二もなく彼を順境の人と思うであろうが、実は順境でもなく逆境でもなく、その人の力でそういう境遇を作り出したに過ぎない」
何事も自分の思いどおりに運んでいる人を「運がいい」というが、運がいいとか悪いとかの話ではなく、その人が努力をした結果そういう境遇を作り出したのだ。夢を持ち、信頼され、他人のためにも努力している人が、それなりの結果を出すのだが、それを周りの人が「運がいい」と呼んでいるだけである、と言っています。
<TEXT/古川裕倫 企業風土改革コンサルタント>