【歴史人】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第13回
戦国時代、幾多の武将たちが争った。その基地となったのは、もちろん城であり、全国は多くの城が存在。今はその形跡を残すものもあれば、わずかな痕跡しか辿れない城もある。今回は知られざる広島・福山市神辺町の名城「神辺城」の現在と歴史に迫る!
■中国地方の要衝に立つ名城は大内・毛利・尼子によって奪い合われた
神辺城は、広島県福山市の神辺町(かんなべちょう)に位置し、地表からの近さが115mほどの黄葉山に築かれた山城である。現在、城跡として整備されていて、一帯は公園になっているほか、神辺歴史民俗資料館が建てられている。
神辺町は、現在の福山市の中心部からは、北東に6kmほど離れている。しかし、古代には聖武天皇の発願によって創建された備後の国分寺・国分尼寺も存在しており、また、城下を西国街道が通るという交通の要衝でもあった。
神辺城の歴史については、戦国時代までのことはよくわかっていない。築城は南北朝時代ともいわれるが、いずれにしても、室町時代には一族で11か国の守護を兼ねていた山名氏の支城となっていた。戦国時代の城主は、山名理興(やまなただおき)といった。系譜については不明であるものの、山名氏の一族であったらしい。
神辺城を本拠居とした山名理興は、周防(すおう)の大内義隆(おおうちよしたか)に従って備後一国を支配下におく。しかし、天文11年(1542)、大内義隆が出雲の尼子晴久(あまごはるひさ)を攻めて失敗すると、山名理興はすぐさま尼子晴久に寝返った。こうして神辺城は、出雲尼子氏の属城となったのである。
もちろん、大内義隆にとって、山名理興の寝返りは、謀反でしかない。態勢を立て直した大内義隆は、陶晴賢(すえはるかた)や毛利元就(もうりもとなり)に山名理興の追討を命じたのだった。これにより、備後に侵攻した大内軍は備後国内における山名理興の支城を落としていく。そして、天文17年(1548)7月には神辺城に総攻撃をかけている。
これに対し、神辺城の山名理興は、籠城して大内軍を迎え撃つ。堅固な神辺城に籠城したことで、山名理興は1年余にわたり守り通した。しかし、援軍が来なければ、勝機を見出すことは難しい。天文18年(1549)9月、山名理興は、尼子晴久を頼って出雲に敗走している。こうした一連の合戦を神辺合戦と呼ぶ。神辺合戦に勝利したことで神辺城を手に入れた大内義隆は、家臣の青景隆著(たかあきら)を入れおき、備後の支配にあたらせた。
しかし、天文20年(1551)、大内義隆は、いわゆる大寧寺の変により、陶晴賢の謀反で自害に追い込まれてしまう。こうして陶晴賢が大内氏の実権を握ったのも束の間、弘治元年(1555)の厳島の戦いで毛利元就に敗れ、やはり自害に追い込まれている。こののち、神辺城には、毛利元就に服属した旧城主の山名理興が入っている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、毛利元就の孫にあたる毛利輝元(もうりてるもと)が敗北してしまう。このため、毛利氏は周防・長門2か国に減封となり、神辺城のある備後を失うこととなった。結局、毛利氏の支配は、50年も続かなかったことになる。
毛利氏に替わって安芸・備後の太守として広島城に入城した福島正則(ふくしままさのり)により、神辺城は、その支城として復興された。しかし、元和5年(1619)、福島正則は広島城の石垣を無断修築した咎で改易となる。替わって今度は、水野勝成(みずのかつなり)が大和郡山城から10万石で備後に入封した。
水野勝成は、戦国時代の三河刈谷城主だった水野忠重(ただしげ)の子で、幕府の信頼も篤かった。そこで、毛利氏など西国の外様大名を牽制する役割をもって、移封してきたものである。当初、水野勝成は神辺城に入城したものの、新たな城を築くことにした。それが福山城である。すでに幕府によって一国一城令が出されている時代であるから、福山城の築城は、すなわち神辺城の廃城を意味する。このとき、神辺城の櫓などは、福山城に移されたという。
福山城は、五重天守のほか、三重櫓7基に二重櫓16基を擁する巨大な城郭だった。このなかに、神辺一番櫓・神辺二番櫓・神辺三番櫓・神辺四番櫓という神辺城の名を冠した櫓が存在しており、いずれも神辺城からの移築とされる。なかでも、最大の櫓であった神辺一番櫓は、もとは神辺城の天守だったという。
残念ながら、これらの櫓は明治維新後に解体撤去されているため、今となっては神辺城からの移築であることを確認することができない。しかし、福山城が築城開始からわずか3年で完成していることを考えると、神辺城から櫓が移築されたというのは、事実だったのではなかろうか。