【sankei】
2023/7/7
古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。
「邪馬台国と卑弥呼には近づくな」。考古学の道に進んだ昭和50年代、上司や先輩から厳しく言われた。遺物や遺跡をもとに歴史像を組み立てるのが考古学。魏志倭人伝という文献中心の邪馬台国論争については「口にすることもできなかった」。
卑弥呼は、景初3(239)年に中国・魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印を授かったと魏志倭人伝は記す。金印が発掘された場所が邪馬台国ともいわれるが、いまだ見つかっていない。
考古学のタブーとされた邪馬台国論争がにわかに活気づいたのが、佐賀県・吉野ケ里遺跡の発掘だった。平成元年、大型祭殿跡や楼閣のような物見やぐら跡が見つかり、「ここから邪馬台国が見える」と脚光を浴びた。6月には未盗掘の石棺墓が発掘され、副葬品は見つからなかったが全国的に注目を集めた。
遺跡や遺物から情報を引き出し、文献史料と照らし合わせて邪馬台国の候補地を絞り込む。こうしてたどり着いたのが、纒向遺跡こそヤマト王権最初の大王都との説だ。卑弥呼は纒向にいた-。新著には、丹念な研究がつづられている。
纒向遺跡との出合いは昭和46年の学生時代にさかのぼる。発掘現場の光景に目を見張った。「重機で地表の土をはぎ取ってベルトコンベヤーにのせ、多くの作業員が掘り進む。発掘というより工事現場のようだった」。発掘は大規模団地建設に先立って行われ、高度経済成長による開発が奈良にも及んでいることを物語っていた。
纒向遺跡との再会は53年。県立橿原考古学研究所の研究員として、発掘を担当した。駐車場整備に伴うもので、範囲は狭かった。「邪馬台国との関連など考えもしなかった」というが、いざ掘り進めると掘っ立て柱建物跡と、凸形に張り出した柵の跡が見つかった。「宮殿か神殿のような、特別な施設の一部では」
そして30年あまりを経た平成21年、桜井市教委の調査で、新たに大型建物跡などが東西に一直線で並んでいるのが見つかった。「卑弥呼の宮殿か」。新聞の1面を飾る全国ニュースになった。自身の仮説が証明された。
前方後円墳は纒向で誕生
「景初3(239)年、倭の女王・卑弥呼(ひみこ)は中国の魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印紫綬が授けられた」「正始元(240)年、魏は倭国に使者を送り、金や鏡を与えた」。魏志倭人伝は倭国との外交関係を詳しく記す。この時期に大陸と外交を繰り広げ、繁栄した地域が邪馬台国(やまたいこく)ともいえる。
考古学からのアプローチは、遺跡の年代が基本となる。出土品に年代は記されておらず、手掛かりは土器。わずかな形の変化を見極めて新旧を判断し、中国の青銅鏡や銭貨などの製作年代を参考に絞り込む。
「絶対的な暦(れき)年代を与えなければ、考古学上の事象や事件を歴史年表のなかに正しく配置することができない」。新著「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)では、土器研究の重要性と長年にわたる研究の蓄積が記されている。そして言う。「これは、とどまることのない永遠の作業です」
卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡だ。この地こそ倭国の大王都とみる。
平成21年に発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、飛鳥時代の宮殿を思わせる配置だった。東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土。シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市だった。
「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、倭国の女王。卑弥呼のいた場所が邪馬台国。これを間違ってはいけない」と強調する。
纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳にも、いち早く着目した。県立橿原考古学研究所に就職した昭和51年には纒向石塚古墳(墳丘長96メートル)を発掘。後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれ、「纒向型前方後円墳」を提唱した。
この設計プランをもつ最古級の前方後円墳は、北部九州から千葉県まで100基に上るという。「ヤマト王権のシンボルの前方後円墳が纒向で誕生し、各地に広がった。地方との政治的関係がこの段階で形成された」とみる。
平成7年には卑弥呼の墓説が根強い箸墓古墳(同280メートル)を発掘。墳丘に接する池の堤防工事に伴うもので、急を要した。「この機を逃すと古墳研究は何十年も遅れる」と徹底的に調査し、出土した土器を精査して築造時期を絞り込んだ。
最古級の前方後円墳が集中し、大型宮殿跡がある纒向遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及ぶ。これまで200回も発掘されたが、調査はまだ全体の3%ほど。邪馬台国の有力候補地として注目される一方で、保存に危機感を募らせる。
「国史跡に指定された範囲は全体からみればわずか。宅地開発は虫食い的に進み、いつの間にか家が建っていることもある」
所長を務めるセンターには「纒向学」を冠した。纒向遺跡にとどまらず、国家の成り立ちを学問として国際的視点で研究する決意が込められている。
「吉野ケ里遺跡(佐賀県)は知っていても、纒向遺跡を知らない人は多い。幅広い分野による研究とともに、遺跡の魅力を分かりやすく伝える。これがセンターの使命です」
卑弥呼共立 綿密な研究から導かれた「異説」
「定説といわれるものでも、最初から信じ込んではいけない」。講師を務める大学ではまず、学生たちにこう伝えている。「なぜそうなるのかを突き詰めて考えるのが学問です」
新著「卑弥呼(ひみこ)とヤマト王権」(中公選書)にも、この姿勢が貫かれている。邪馬台国(やまたいこく)や女王・卑弥呼について、遺跡や遺物を丹念に調べ、学界の「常識」を超える結論にいたった。
卑弥呼は、北部九州や吉備などの勢力が話し合いで擁立し、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に都を置いた-。邪馬台国畿内説ではあっても〝多数派〟と大きく異なる見解を示した。
魏志倭人伝は卑弥呼誕生の経緯について「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」と記す。
この記述をもとに畿内説の研究者の多くは、弥生時代に勢力を誇った北部九州と、大和を中心とする畿内勢力が戦い、勝利した畿内勢が卑弥呼を擁立したとの説をとる。あくまで戦争が前提だ。
しかし、「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」と反論。魏志倭人伝の「倭国乱」について、中国の別の歴史書に「歴年主(あるじ)無し」と記された点に着目する。「中国から見て、倭国の王が定まらず外交窓口がない状態を『乱』と表現した」とみる。
遺跡の状況がそれを裏付けるという。「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。
この頃、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。群雄割拠の状態になった。一方で、畿内の大和には際立った副葬品を持つ大型の墳丘墓もなく、とびぬけた権力を持つ王はいなかったという。
新著を通じて「混沌(こんとん)とした状況を打破するため、北部九州や吉備などの勢力が話し合って卑弥呼を擁立。王都は、突出した既存勢力がいない纒向に置いた」と説く。
「このような主張は異端である」。同書ではあえてこう記した。そのうえで、他の研究者の説を併記したのが特徴だ。「これまでの説に対して、私はこういう根拠でこう考えるとしっかり理解してもらいたかった」と話す。「いずれが事実の蓄積の上に立ち、より論理的で説得力があるか、読者の判断を仰ぎたい」とつづった。
「卑弥呼の時代は3世紀の昔の話と思ってほしくない」とも語る。卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは景初3(239)年。親魏倭王の称号と金印が授けられ、破格の待遇を受けた。
この年は、朝鮮半島北部一帯の勢力「公孫(こうそん)氏」が魏に滅ぼされた翌年にあたる。「卑弥呼は激動する東アジア情勢をいち早くキャッチし、魏の脅威を感じて使者を送った」と解説。さらに当時の大陸は魏、呉(ご)、蜀(しょく)の三国志の時代。「魏にとって、ライバルの呉を牽制(けんせい)する意味で倭国との関係を必要とした」とみる。
情報戦のなかで国の進むべき道を考える。まさに混迷する現在の国際情勢に通じる。「邪馬台国の時代から学び取ることは実に多い」。纒向遺跡と半世紀近く向き合うなかで、実感している。(聞き手 編集委員・小畑三秋)
てらさわ・かおる 昭和25年、東京都生まれ。同志社大文学部を卒業し、千葉市教育委員会を経て51年に奈良県立橿原考古学研究所へ。調査研究部長などを歴任。平成24年4月に開設された桜井市纒向学研究センター所長。平成14年に第15回濱田青陵賞受賞。主な著書に『弥生時代政治史研究』(吉川弘文館)、『弥生国家論 国家はこうして生まれた』(敬文舎)など。