菅茶山の足跡を訪ねて(9)菅茶山と頼山陽
1825(文政8)年、頼山陽(49歳)が広島を出立して帰京の途中、菅茶山(77歳)を訪問し、数日間滞在して帰途につく際、丁谷(ようろだに)の観梅で別離の杯を交わしました。この時に詠んだ漢詩が神辺交流館横の石碑に刻まれています。
數宵閑話毎三更
未盡仳離十載情
送者停筇客頻顧
梅花香裏夕陽傾
(「丁谷餞子成卒賦」の一部)
(要約)幾夜にわたり深夜までしみじみ語り合ったが、それでも十年間別れて過ごした間の積もる話は尽きない。自分はいつまでも杖を立てて見送り、客(頼山陽)は、しきりに振り返りつつだんだん遠くなる。そうしている間に、この梅の匂う里に夕陽が傾いた。
頼山陽は、江戸後期の儒学者で、「日本外史」「日本政記」を著した歴史家として著名です。竹原で来遊していた茶山と出会い、酒宴を共にした縁もあって、山陽は茶山に身の振り方を相談する手紙を1807(文化4)年に送っています。父春水からも相談された茶山は1809(文化6)年12月29日、山陽を廉塾に都講として迎えました。
茶山は、山陽の詩才・文才にすっかりほれこみ福山藩に任用してもらうよう運動していましたが、山陽は茶山に上京したいと訴えました。茶山もついに折れて山陽の上京を認め、山陽は、1811(文化8)年2月廉塾を去りました。
茶山のもとを離れた山陽ですが、あくまで茶山を尊敬し、いつも書簡で礼を尽くすとともに、帰省の往復ごとに茶山を訪問するなど師の恩を忘れませんでした。この碑からも両者の親密な関係が分かります。
<神辺交流館横の石碑>
<酒を酌み交わしながら別れを惜しんだ丁谷の梅園>
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