菅茶山の足跡を訪ねて(12)広島県史跡菅茶山の墓
廉塾から南に500mほど進んだ黄葉山の東麓,網付谷に茶山の墓があります。その墓碑に茶山の人物像を記した次の一節があります。
先生為人 偉軀幹方面高顴
及老朱顔白髪 望之有威 而接物謙和 恂々如田舎翁 善談謔
不欲以名高自尊大 無貴賤雅俗 皆不失其歓心 然暁通人情世故 暗弁淑慝截然不可欺也
(大意)
茶山は体が大きく立派で顔は四角く額が高い。晩年は顔が赤く白髪で威厳があったが,穏やかでまるで田舎のおじいさんのようであった。話好きで名誉を求めることもなく,誰とでも心を通わせた。一方で世の中のことに精通し,物事の善し悪しをわきまえていた。
この墓碑は菅自牧斎(廉塾の2代目塾主)によって建立されたもので,「茶山先生菅君之碑」と題された碑文は,広島藩士で儒学者である頼杏坪の撰文で茶山の人物像のほか,経歴や業績,塾の経営に関することなど,その一生が簡潔に記されています。
杏坪は撰文に至った経緯について,「茶山と自分たち兄弟(頼春水・春風・杏坪)は親しくしてきた。茶山が病に臥した時に送られてきた書状には茶山の事跡のうちであまり知られていないことも記してあった。このことは,茶山が自分に碑文を記すことを託しているように感じた。茶山の死後,自牧斎と門人たちが墓誌を記すことを依頼してきた」と同碑文に記しています。
茶山と頼家との親交は深く,杏坪こそが自分の死後,墓誌を撰文するふさわしい人物と感じていたのでしょう。
この墓碑は自牧斎と門人たちの茶山を慕う思いが形になったものであり,茶山と頼家の深い交友の証ということができます。
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