福山城北東の一画、江戸時代に米蔵があった場所に、福寿会館があります。和洋の館が建つこの邸宅は元々、福山の特産 けずり鰹 (商標「するわ」)の創始者、安部和助が昭和初期に建てた別荘です。
この福寿会館について、琴の名手 葛原勾当の孫で、教育者であり童謡作家のしげるが1961(昭和36)年発行の『山陽タイムス』に「福山の福寿会館―日本館の縁側ばなし」と題して寄稿しています。
その中で「終戦後、郷里へ疎開してから、この福寿会館へ車で登る。その縁側の用材である松は私の故郷、八尋村の生家の門口にあったものである。その松、樹齢約五百年、直幹十三間(約23m)ばかり、目通りの周囲一丈二尺(約3・6m)あまり。1929(昭和4)年の旧暦2月12日の夜半、強風にあおられて折れてしまい、直幹九間(約16m)ばかりが電信柱のように突立ったまま残った。4月3日、神主のおはらいの後、近郷一の頭梁に切ってもらい、父が福山の材木屋へ売った。しばらくは、あれが製材されてするわの縁側になったそうな、大きな縁側や長い廊下があの大松で出来たそうな、と専ら、村の話題に上がっていた」と回想しています(この年の12月しげるは東京で永眠)。今も神辺町八尋にはしげるの生家があります。
こうした縁があり、今年、福山城本丸広場にあった苑池を埋め戻した際、苑池に使用されていた石製の五重塔と燈籠を葛原家に移築しています。
葛原家の老松が使われた福寿会館の松の廊下
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