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【山陽新聞】宮沢喜一氏記念館 福山に開設機運 田中・福山大客員教授に意義聞く

本日の山陽新聞朝刊から。
TBSで毎週日曜日の朝に放送される、「サンデーモーニング」にレギュラーで出演されている、田中秀征福山大学客員教授のインタビューが掲載されています。
田中氏も側近として支えた故宮澤喜一元首相について、詳しく話されています。 記事では、私自身も昨年末に福山市議会で行った質問の中で、宮澤先生が大事にされていた言論の自由について触れた点についても掲載されています。
含蓄のある内容です。


宮沢喜一氏記念館 福山に開設機運 田中・福山大客員教授に意義聞く

【山陽新聞】宮沢喜一氏記念館 福山に開設機運 田中・福山大客員教授に意義聞く
岸田文雄首相と同じ自民党の名門派閥「宏池会」から、1991~93年に首相を務めた宮沢喜一氏の記念館開設を求める声が福山市で上がっている。同市を選挙地盤とした宮沢氏は外相、官房長官、蔵相(現財務相)などを歴任し、軽武装、憲法擁護、積極財政による経済成長路線を政治理念に保守政治をリードした。宮沢氏の側近だった元衆院議員の田中秀征・福山大客員教授に記念館設置の意義を聞いた。

―記念館設置を求める陳情書が昨年11月、地元の顕彰会から福山市長に提出された。

歴代首相の中で、記念館を設けるに値する数少ない政治家だ。宏池会を創設した池田勇人首相が1960年、打ち出した「所得倍増計画」を、宮沢さんは経済企画庁長官として推進するなど、戦後の日本経済とともに歩んだ。敗戦で連合国軍の占領下にあった日本の独立回復へ、サンフランシスコ講和条約に51年、調印した吉田茂首相に31歳で随行するなど、戦後の外交史にも深く関わった。

―昨年12月の市議会で宮沢氏の秘書だった市議が「戦前、戦中に自由が制限された生活を送ったからか、言論の自由に強い思いがあった」と振り返った。

宮沢さんは、自由のあるべき姿を説いた「自由論」を著した英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルを信奉していた。権力主義的政治を嫌悪する自由主義者だった。菅義偉前首相が日本学術会議の会員候補6人の任命を拒否したが、宮沢さんだったら、こんな問題は起こらなかっただろう。激しい反対運動が起こった「60年安保闘争」で岸信介首相が退陣し、後継の池田勇人首相は反対派に対する「寛容と忍耐」を掲げたが、この「寛容」はミルに学んで宮沢さんが推した言葉。異なる価値観を認めようということ。この姿勢は最後まで変わらなかった。

―田中客員教授の著書「自民党本流と保守本流」で、宮沢氏が「最も評価できる政治家」に、東洋経済新報社の主幹、社長から首相になった石橋湛山を挙げたことを紹介している。

湛山は1921年、東洋経済新報の社説で、帝国主義路線を歩む日本の“大日本主義”を酷評した。植民地化した朝鮮半島や台湾などを捨て中国を「友とし」、「平和主義により、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐ」とする“小日本主義”を主張した。植民地を捨て軍事費を減らし、通商国家となる湛山の考え方を、宮沢さんは戦前から高く評価していた。

―戦争放棄をうたった憲法9条の改正に最後まで慎重だった。

第2次世界大戦の敗戦は「国策の誤り」によってもたらされたという歴史認識と、深い反省が保守本流の思想の根幹。宮沢さんは、衆議院手帳の憲法の部分だけ破って内ポケットに納め、必要なときに確認していた。二度と戦前のような世の中に戻しちゃいけないという決意が表れていた。こういう人は今はいない。一貫して言っていたのは「軍事大国にならない」ことと、発展途上国に提供する「最大限のODA(政府開発援助)」だった。

―著書で「保守本流の申し子」と評する宮沢氏の記念館設置を巡る動きをどう見るか。

本当にうれしい。戦後政治史は、宮沢さんの思想や理念が軸になっていると言っても過言ではないだろう。著書や新聞記事も展示し、思想潮流が後世に伝わる館にしてほしい。

たなか・しゅうせい 1940年長野県生まれ。衆院議員を3期務め、93年に自民党を離党、新党さきがけを結成し党代表代行。細川内閣の首相特別補佐、橋本内閣の経済企画庁長官を歴任した。
(2022年01月28日 20時24分 更新)


 

 

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