【備後とことこ】
2023.03.17
福山市は、2023年1月9日に開催された『時代行列・福山とんど祭り』の来場者を、21,000人と発表しました。
新年早々、『福山城築城400年博』にちなんだ「時代行列」と伝統の「福山とんど祭り」を抱き合わせることで、福山市中心部のにぎわいをうまく創出したかたちです。
ところで、鞆の「お弓神事」も新年を祝う福山の祭事として外せません。
惜しくも一昨年(2021年)は中止、昨年(2022年)は無観客を余儀なくされましたが、ようやく今年(2023年)、3年ぶりに本式神事となりました。
その舞台となった沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、福山藩主を代々にわたり務めた水野家とゆかりがあります。
福山城築城イヤーが終了したばかりのいま、あらためて、お弓神事とはどのような祭なのか。
沼名前神社はいかなる祭祀施設で、これまで鞆の浦とどういった関係を築いてきたか、など。
2023年2月12日に執りおこなわれた、福山市無形文化財「お弓神事」のようすを交えつつ、紹介します。
記載されている内容は、2023年3月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
一年の平穏無事を祈念する 「お弓神事」
お弓神事は、旧暦1月7日(現在は2月第2日曜日)に、沼名前神社の境内社・八幡神社で執りおこなわれる例祭です。
1971年に、福山市無形民俗文化財に指定されました。
その起源は一説に、神功皇后(じんぐうこうごう)が鞆に立ち寄り、「稜威の高鞆(いづのたかとも)」を奉納された故事にあるといわれています。
のちに、放った矢で悪鬼を射抜いて邪気をはらう、一年の平穏無事を祈る神事に変化しました。
破魔弓の一種といえば、わかりやすいでしょうか。
開始の時刻となり、大勢の参観者が矢場をとり巻くと、まずは矢場の準備。
禰宜(ねぎ)が、的を構えた宮司に向けて矢を射ます。清めの白矢が五方に放たれるのです。
的を大きく逸れた矢は、ゆるやかな放物線を描いて参観者の人だかりのなかへ。
清浄感に満ちた神事の場が整うと、いよいよ大弓主、小弓主が、それぞれ2本ずつ3回、計12本の矢を射ます。
12本の矢は、一年(12か月)分を射はらうということです。
約28m先の半径1.8mの的は、裏側に甲乙なし(勝負なし)を意味する「甲乙ム」と墨書され、そこに向かって矢は放たれます。
金的(的の中心)に当てることが目的ではなく、格式を踏まえ、儀式として奉納されるのが神事の趣旨なのです。
鞆町の住民が持ち回りで支える神事は、当番町内から「親弓主・子弓主・小姓(こしょう)・矢取(やとり)」の役を選ぶのが慣例。
当番町の若者のなかで年長者が親弓主、年少者が子弓主に選ばれ、小姓の二人は小学生が対象です。
よくメディアで取り上げられるのは、幼児の務める二人の矢取が、背中に背負った大きな銅鈴を鳴らしながら小走りする場面。
参観者のカメラが、その微笑ましいしぐさを一斉に狙います。
古式ゆたかな衣装に身をつつんだ諸役(しょやく)による、厳かな伝統作法も見逃せません。
多世代間で神事が執りおこなわれるのは、地域の者で絶やすことなく継承し続けることを神に示しているかのようです。
「お弓神事」は旧正月を祝う風物詩として、鞆の浦界隈に広く浸透しています。
中世の響きを残す鞆ことば「お弓を申す」
矢場へ向かうときに大きな声で唱える「申す、申す、お弓を申す」の「もうす」には、鞆ことば特有のみやびな響きがあるといわれます。
「差し上げます」なら、「あげもうす」という具合に、それは由緒正しい京ことば、中世の標準語なのです。
このような表現は、福山の中心部では時代を遡っても見つけられないのだそう。
そうしたことから、中世期に京と鞆の間で人々が頻繁(ひんぱん)に行き交い、話し言葉でも影響を与えあう関係にあったことがわかります。
日本遺産のストーリーに欠かせない「鞆の祭」
沼名前神社の例祭といえば、夏の「お手火神事」も心に留めておきたい祭です。
「お弓神事」を静とすれば、動の印象が強い「お手火神事」は、荒々しい躍動感に目を奪われます。
手火とは、肥松を青竹で包み縄で絞めてつくられた、神事を象徴する大松明(おおたいまつ)。
火の付いた三つの手火を神社の拝殿から本殿まで氏子たちが運んだあと、御輿で町内を練り歩きます。
鞆の浦には、四季折々に特徴をもった祭があり、1年を通じて伝統祭事の奥深さが感じられます。
3つの展示エリアがある『鞆てらす(鞆町町並み保存拠点施設)』のひとつが、「鞆と祭」をテーマとしているのも、その深淵さゆえでしょう。
日本遺産の選定ストーリーにも欠かせない鞆の祭について、こちらの公共施設であらかじめリサーチできます。
瀬戸内を代表する古社「沼名前神社」
多彩な歴史文化遺産を有する瀬戸内エリア。
なかでも「延喜式」神命帳(えんぎしき じんみょうちょう)にも記載があるのが、式内社「沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)」。
江戸時代、かつての牛頭天王(ごずてんのう)・スサノヲを祀る鞆祇園社(ともぎおんしゃ)が、現在の地に鎮座しました。
海に面した山裾に立地し、鞆の浦を見守るかのように鎮座していることから、自ずと海や港町・鞆と密接な歴史を刻んできました。
境内には、拝殿のほか、能舞台、八幡社、摂社である渡守社があり、隆盛を誇った神社ならではの壮観な景勝が広がります。
一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居、燈籠、玉垣、大雁木(大石段)などさまざまな石造物が配されているのも特徴です。
沼名前神社のあゆみ(小史)
1871年、大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る渡守(わたす)神社と須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る祇園社を合祀し、社名を沼名前神社としました。
それまでの略歴を以下に記します。
- ルーツは江隈(えくま)の国社(くにやしろ)とよばれた須佐之男命を祀る神社。
- その江隈の国社の近い場所に、海の神・大綿津見命を祀った渡守(わたす)神社がありました。もう一方のルーツに当たります。
- 826年、淳和(じゅんな)天皇のとき、江隈の国社は移転に伴って「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」に改名。
- 江戸時代、現在の場所へ移ると、同境内に渡守神社も移転。
- 1871年、明治時代に二つの神社を合祀し、社名を「沼名前神社」とします。
沼名前神社と鞆の発展
鎌倉時代に書かれた御輿の棟札(むなふだ)からは、すでに商都・鞆の浦の繁栄と港町、神社の隆盛がうかがえます。
江戸時代から昭和初期、夏の祭礼は多くの参拝者を集め、船が港一帯を埋め尽くすほどでした。
棟札の記録からも、沼名前神社への参拝が、鞆の商いに好循環を生んでいたことがよくわかります。
「沼名前」は読めなくて当たり前
ところで沼名前(ぬなくま)は聞き間違えやすいうえに、難読漢字です。
また福山市には沼隈(ぬまくま)という町名もあります。
「前」を「くま」と読ませるのは、その名を記憶されるのを拒んでいるかのようです。
それには理由があります。
「隈」は海と山が入り組み、奥まった場所で縁起が悪く、「畏(おそ)れ」の文字を含むことも忌み嫌われたゆえん。
ただ厄介なのは、奥まったところ「隈」を、おもてを意味する反意語「前」に替えると、読みの「くま」が消滅してしまいます。
しかし、わざわいを畏れて沼名前と表記したのを知れば、命名の周到さが伝わります。
ということもあって、沼名前は読めなくて当たり隈、いえ、当たり前なのです。
「祇園さん」と呼ばれて
「鞆の祇園さん」と親しみを込めて呼ばれる沼名前神社。
祇園とは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)からきた言葉で、古代インドのシャカとその弟子の僧院を指します。
とすると、沼名前神社は実のところ(仏教施設の)お寺ということでしょうか。
そうではなく、当時の日本人は先祖の神々を祀った神社と仏教の信仰との間に、矛盾するものはないと考えていました。
国内初の仏教信者の天皇である、用明(ようめい)の信仰に対する考えは日本書紀に見つけられます。
曰く、古来の神道は排斥(はいせき)せず、仏教との共存の道を選ぶ、と。
そうした神仏混淆(集合)は、日本ではあまり違和感のあることではなかったのです。
たとえば、鳥居をもつお寺もありますね。
ところが明治になると、今度は神仏分離令の公布があり神社とお寺は分けられ、それぞれの役割を担うことになります。
焼失した「拝殿と本殿」
1975年の火災で、荘厳な佇まいを誇った沼名前神社の拝殿と本殿は残念ながら焼失しました。
現在は再建された建物より、参拝が可能です。
大雁木(大石段)が導く、広い境内にふさわしい存在感で鎮座しています。
沼名前神社の摂社「渡守神社」
鞆の浦で最古の神社建築である渡守(わたす)神社の本殿。
沼名前神社に祀られる渡守神社は、「お渡守さん」とも呼ばれています。
祇園神社と一緒に祀られたことで、現在の沼名前神社は瀬戸内一帯の広い信仰を集めました。
渡守神社(本殿)は建築技術にすぐれ、意匠の細部に古式をよく残しています。
沼名前神社と疫病
新型コロナウイルス感染症の影響により、2023年に3年ぶりに執りおこなわれた「お弓神事」。
かつては疫病が流行ると、沼名前神社をわが町へという勧請が各地から上がったこともありました。
岡山県の郷土資料「沖新田開墾三百年記念史」には、江戸後期から明治にかけて、疫病大流行の年が繰り返されたとあります。
多くはコレラの大流行で、全国で最大50万人の犠牲が出たと記録に残っています。
そうした災厄を背景に、疫病退散の神である沼名前神社をわが町に創建したいという声が各地で上がっていたのです。
「天下の名舞台」の誉れ高い能舞台
沼名前神社には、福山藩から多くの宝物が奉納されています。
そのなかでも、福山三代藩主の水野勝貞(にずの かつさだ)が奉納した能舞台は、鞆のみやびな文化土壌をうかがい知れる国重要文化財です。
国内唯一の移動式舞台は、現在固定されていますが、移動式ゆえのドラマがあります。
もとは能に熱狂していた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が、伏見城につくらせたもの(一度は消失し、徳川家康(とくがわ いえやす)が再建させたという説あり)。
それが江戸初期、伏見城取り壊しの際、徳川二代将軍・秀忠(ひでただ)から家康の従兄弟・水野勝成に、伏見櫓(ふしみやぐら)とともに下賜(かし)されます。
そして福山城から沼名前神社へ奉納。能舞台の魅力が十分に伝わる、鞆に辿り着いたのは必然的な帰結のように思えます。
文化だけでなく権威を誇示する能舞台は、「天下の舞台」と呼ぶに相応しく、来歴を知ると、その価値の高さをあらためて認識できるでしょう。
復元の準備は万端「能舞台の鏡板」
能舞台の役者は、観客に向かって演じていないというと驚くでしょう。
実は神に向かって演じているのです。
それを示すのが、重要な舞台装置のひとつ「鏡板(かがみいた)」。
神仏が現世に降臨することを「影向(ようごう)」といい、観客席の側に存在する春日明神の化身である松を鏡のように映したのが鏡板です。
400年前に、沼名前神社能舞台の鏡板に描かれた老松と若竹は退色劣化して、現在は目視できません。
しかし赤外線写真によって、その輪郭が確認されています。
また近年の調査・研究によって、復元のための下絵「原寸大見取り図」が完成しました。
現在のテクノロジーを用いれば、金色を配した華やかな鏡板を甦らせ、当時さながらの本舞台が再現できるかもしれません。
水野勝俊が奉納した「二の鳥居」
沼名前神社の二の鳥居(の上部)を注視してください。
鳥居の笠木(上部)の両端にある特徴的な反りに気づきましたか。中四国では珍しい鳥衾(とりふすま)型です。
この鳥居は、福山二代藩主の水野勝俊(みずの かつとし)が奉納したもの。
当時、鞆城跡に居住していた勝俊は、「鞆殿」と呼ばれていました。
特徴的な装飾には、どのような思いが込められたのでしょうか。
鞆殿・勝俊公の祇園宮への偏愛のあらわれなのかもしれません。
福山城築城400年と鞆の浦
冒頭で紹介したように、2023年1月9日、福山城400年博がフィナーレを迎え、その最後を飾るイベント「時代行列・福山とんど祭り」がおこなわれました。
同イベントは、水野勝成をはじめ、福山ゆかりの功労者や偉人に扮した人々の時代行列と伝統行事とんどがカップリングする前代未聞の試み。
中央公園から福山北口スクエアまで、福山市街・城下町エリアには、400年博の一大フィナーレを祝う多くの市民が詰めかけました。
「福山とんど」は、福山初代藩主・水野勝成の入城に際し、町衆がとんどを担いで祝ったことに端を発します。
江戸時代の福山とんどは、「日本一雄壮華麗」と賞賛されました。
福山城築城イヤーでは、何かと担ぎ出されることの多かった勝成公ですが、上の写真を見ると、いまはどうやら駕籠の中。
そこからメッセージを受け取るとすれば、「今後の福山は“令和の民に託した”」でしょうか。
築城400年を迎えた福山城(福山市街)に当たっていた脚光は各地に分散し、鞆の浦にも届くことでしょう。
ところで現在工事中の、県道の福山鞆線と鞆松永線をつなぐ「鞆未来トンネル」は、2024年3月の完成予定です。
開通のあかつきには、鞆町中心部の渋滞解消が期待されています。
福山が目指すのは、市街の周辺地域のひとつ、鞆の浦を活気づけ、豊富な資源を磨き上げる。
そして、いっそうの活力の源となるストーリーを共有し、他の地域とつないでいくエリアづくり。
かつて商都と呼ばれた鞆が変わっていく一方で、その変わらない伝統文化の在り方が、今後の福山にとって、ひとつの鍵となりそうです。
沼名前神社「お弓神事」のデータ
名前 | 沼名前神社「お弓神事」 |
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期日 | 午前9時~午後4時 |
場所 | 広島県福山市鞆町後地1225 |
参加費用(税込) | |
ホームページ | 沼名前神社 |
以上「備後とことこ」より引用