菅茶山の足跡を訪ねて(4)「神辺驛」石碑
JR神辺駅を出て北東に進むと、東西に走る旧山陽道に出ます。白壁の続く古い町並みをたどれば神辺本陣があり、かぎ状に曲がった道をさらに東に行けば、茶山の弟子であった小早川文吾の旧宅跡や廉塾(菅茶山旧宅)があります。
この通りの一角に、太閤秀吉が九州へ向かう途中に立ち寄ったとされる伝太閤屋敷跡があり、そこに茶山の漢詩「神辺驛(えき)」を記した石碑が立っています。
神辺驛
黄葉山前古郡城
空濠荒驛半榛荊
一區蔬圃羽柴舘
數戸村烟毛利營
(要約)黄葉山の前は古いにしえの城下町。かつての濠(ほり)は涸(か)れ、宿場は廃れて雑木が生い茂っている。一区画の野菜畑は昔、羽柴(豊臣)秀吉が泊まった館の跡。数戸の家から煙が立っている辺りは毛利軍の陣営の跡とか。
神辺は古代から交通の要衝であり、中世には黄葉山に神辺城が築かれました。神辺の地はこの神辺城を巡って幾度か戦場となっています。天文年間(1532〜1555年)に起こった神辺合戦と呼ばれる戦の際には、大内方の配下である毛利氏が城下町に陣を敷きました。
その後、近世には大名行列が立ち寄る宿場町となってにぎわった神辺の町。茶山の時代には戦場となった頃の面影はどこにもなく、ただ雑木林や野菜畑となり昔の姿をしのぶだけでした。
茶山は福山藩主阿部正精の命により1805(文化2)年に「福山志料」という地誌の編さんを手掛けており、その中で神辺の歴史も詳細に記しています。今日まで神辺の地で絶えることなく続く人々の営みの移り変わりが感じられます。
<神辺驛>石碑
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