菅茶山の足跡を訪ねて(6)岡田池の碑
藁江峠(金江町)を南に下り1キロメートルほど進むと岡本池があります。その堤に「岡本池の碑」が建てられ,池の来歴が次のように記されています。
(大意)
藁江村には3つの池があり,藁江,柳津,金見三村の田を潤していたが,晴天が続くと農民は干害に苦しんだ。その姿をみた藤江村の豪農・山路右衛門七重敏は1818(文政元)年3月,私財を投じて新たに池をつくった。村人は喜び,山路家の屋号から岡本池と名付けた。藩主(阿部家第5代福山藩主阿部正精)は,その功績を称賛した。
『福山志料』には藁江村に20箇所,金見村に22箇所,計42箇所もの溜池が記載されており,地形的に水量の確保が課題であったことが伺えます。岡本池の築造は地域課題の解決につながったのです。
18世紀以降,福山城下の焼失や享保の飢饉,天候不順による農作物の不作が続き,百姓一揆が立て続けに発生するなど,地域社会全体が不安定な状態でした。
このような状況を背景に藩財政も苦しくなる中で,豪農商と呼ばれた人々は,自らが出資者となり飢饉・災害等の被災者救済や教育・文化などの発展を目的とする義倉を設立し,地域社会の回復を図りました。また山路家のように民衆のため自ら私財を投じてインフラ整備等を行う者も現れました。
こうした動きは福山藩にとっても地域社会を安定させる大きな助けとなりました。阿部正精はその功績を後世に残すため,福山藩儒として重用していた茶山に撰文させ,石碑を建てさせたのでしょう。
岡本池の碑
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