能登半島地震で段ボール製の簡易住宅「インスタントハウス」が大活躍している。組み立ては15分、原価は約1万円で、屋根と扉、窓もついた小さな「家」だ。被災地の子供は「体育館におうちができた」と話しているという。インスタントハウスはどうやって生まれたのか。開発した名古屋工業大学の北川啓介教授に、フリーライターの川内イオさんが取材した――。

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1月2日から被災地で支援を始めた名古屋工業大学の北川啓介教授。 – 筆者撮影

■絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感

元日に起きた大地震の影響で、およそ600人の被災者が身を寄せる石川県輪島市の市立輪島中学校。雪が積もるその中庭に、不思議な形の建物がたたずんでいた。モンゴルの遊牧民が暮らす移動式住居「ゲル」のようにも見えるし、卵の卵白を泡立てたメレンゲのようにも見える。

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屋外用の「インスタントハウス」。一人でも1時間で組み立てられる。 – 筆者撮影

この建物は、「インスタントハウス」という。考案したのは、名古屋工業大で教授を務める建築家、北川啓介さん。1月2日から被災地で被災者支援にあたっている彼が建てたものだ。

インスタントハウスは、空気を送り込むと風船のように膨らむよう設計されたテントシートの内部に、断熱材として一般的に使用されている発泡ウレタンを直接吹き付けている。直径は5メートルあり、床面積は20平米、高さは4.3メートル。原価は15万円、北川さんひとりで施工しても、わずか1時間で完成する。

インスタントハウスに足を踏み入れた時、思わず「あっ」と声をあげてしまった。外はダウンジャケットが欠かせない気温なのに、内部は小型のファンヒーター一台で、上着を着ていると汗ばむほどに暖かい。発泡ウレタンのなかにある無数の気泡が空気のバリアを作って、冷気を遮り、ヒーターの熱を留めているのだ。壁から天井まで全体が白くモコモコしているせいか、絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感もある。

撮影=白石果林
屋外用インスタントハウスの内部。外の冷たい空気が遮られ、快適に過ごせる暖かな空間が広がっていた。 – 撮影=白石果林

■屋内用は15分で組み立てられる

輪島中学校のアリーナには、屋根と扉、窓がついたダンボール製の小さな家が置かれていた。これは、北川さんが編み出した室内用インスタントハウス。大人と一緒なら子どもでも組み立て可能で所要時間15分、要望に合わせて形状を変えられて、ハウスとハウスの連結も可能というすぐれもので、原価は約1万円。

「屋根がついている避難所のブースって、ほぼないんですよ。でも壁だけより、天井とか屋根があった方が保温性も高いし、心も休まるし、家に帰ってきたという感じになりますよね。子どもでも作れるようにしたのは、避難所に身を寄せられてる皆さんが、みんなで手を動かしてインスタントハウスを作れるようにしたかったから。形も変えられるので、自分がほしい家の形にして、未来に向かっていく気持ちが少しでも湧いてきたらいいなと思ったんです」

写真提供=北川教授
輪島中学校のアリーナ(体育館)に設置された屋内用のインスタントハウス。 – 写真提供=北川教授

明るい話題が少ない被災地で屋内用、屋外用のインスタントハウスは脚光を浴び、さまざまなメディアで報じられた。その存在が知れ渡るにつれてニーズも拡がり、今、被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いているそうだ。

写真提供=北川教授
着替えやオムツ交換、授乳スペースとしても屋内用インスタントハウスが活用されている。 – 写真提供=北川教授

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避難所のなかの貴重なプライベート空間として避難者の方々に利用されている。 – 写真提供=北川教授

寝る間も惜しんで被災地を駆け巡る男は、「建築家になるつもりはなかった」と苦笑する。彼が目指したのは、和菓子職人だった。

■学生時代に振る舞った「和菓子の家」

北川さんは1974年、名古屋市で3人兄弟の末っ子として生まれた。父は和菓子の職人で、母と一緒に「尾張菓子きた川」を営んでいた。瑞宝単光章を受章した父の腕は確かで、2022年には『マツコの知らない世界』でも紹介されている。

幼い頃から店頭に立って売り子をしていた少年は、いつの頃からか、和菓子職人を志すようになった。修行先を探すため、高校時代は全国の和菓子店を訪ね歩いた。その際、堺市の和菓子屋に惚れ込み、高校を卒業したらそこで働くつもりだった。

ところが、「友だちが受けるから」と気まぐれで受けたセンター試験で、名古屋工業大学の工学部に合格。両親の希望もあって入学した。もともと建築に思い入れはなかったから、大学の外で学生生活を謳歌した。

唯一、「めっちゃ楽しかった」のは設計の課題。北川さんはいつも、曲面が多く、ぐにゃぐにゃと柔らかな「和菓子のような建築物」を構想し、「自分の頭のなかをアウトプットしやすいし、一番慣れている」という理由で、和菓子の素材で模型を作った。講評会の後の打ち上げでは、同級生や教授に「和菓子の家」を振る舞った。

最終学年になっても、卒業したら和菓子職人に、という思いは変わらない。しかし、父親に「そろそろ、和菓子職人に……」と相談すると、毎回「まだ早い」と説得された。

「建築を深めれば、もっと人に求められる和菓子ができるようになる」
「洋菓子を学んだら、もっと面白い建築のような和菓子ができるかもしれないぞ」

撮影=白石果林
インスタントハウスが生まれた経緯を話す北川教授。 – 撮影=白石果林

■暗中模索の教員生活

そのたびに、「なるほど、確かにそうかもしれない」と感じて大学院の修士課程、博士課程と進んだ。博士号を取得して「これでようやく……」と思っていたところ、親身に指導してくれた名古屋工業大名誉教授、若山滋氏に声をかけられて、2001年、助手として名工大で働き始める。

ここで自分でも意外に感じるほど学生に教えることにやりがいを感じるようになり、2007年には准教授に。傍から見れば順調すぎる教員生活ながら、「ずっと暗中模索でした」と語る。

「若山先生は、とても高尚に背筋が伸びるようなハイカルチャーのことを語られるんですよ。狂言の話をしたり、源氏物語や徒然草から引用したり。僕は29歳の時(2003年)から自分の研究室を持たせてもらったけど、若山先生のようにはなれないし、どうしようかなと悩んでいました」

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輪島市内ではあちこちで信号が傾いていた。 – 筆者撮影

■「サブカルに詳しい建築の人」を揺さぶった言葉

霧のなかを抜け出すきっかけをくれたのは、元AKB48の篠田麻里子だった。2005年に秋葉原を訪ねた際、当時まだAKB48劇場内のカフェ「48’s Cafe」のスタッフだった篠田麻里子が路上でチラシを配っていた。それを受け取った北川さんは、吸い込まれるように劇場に足を運んだ。そこには、熱狂的に声援を送る男たちがいた。

「なんだ、これは……」初めて見る光景に圧倒されながらも、北川さんは「秋葉原って面白い」と感じたそうだ。ちなみに、2005年は秋葉原のメイド喫茶が話題を呼んだ年で、新語・流行語大賞には「萌え~」がトップ10入りしている。秋葉原独特の熱気に触れた北川さんは、マンガ喫茶の研究を皮切りに、サブカル路線に舵を切った。研究対象は、出会いカフェ、ラブホテル、パチンコなどに広がっていった。そのうちに、「サブカルに詳しい建築の人」として知られるようになっていった。

北川さんが着目していたのは、「家以外のスペースで、人はどういう生活をしているのか」。それが、意外な依頼を引き寄せる。2011年4月15日、北川さんは宮城県の石巻中学校にいた。前月に起きた東日本大震災により、石巻中学校は被災者の避難所になっていた。「家以外のところでの生活」に詳しい北川さんの意見が聞きたいと、朝日新聞から同行取材の申し入れがあったのだ。

現地に到着したのは夜で、冷え冷えとした体育館のなかを1時間ほど案内してもらった。その間、ずっと北川さんについてまわるふたりの男の子がいた。小学校3年生と4年生のふたりは、視察を終えた北川さんが「それでは失礼します」というと、近づいてきてギュッと人差し指を握り、「ちょっといい?」と引っ張り始めた。ふたりは北川さんを校庭が見える場所まで連れていくと、校庭を指さした。

仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」

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歩道のブロックは大きく歪み、滅茶苦茶な状態になった。 – 筆者撮影

北川さんは、黙り込んだ。数秒経ってから出てきた言葉は、「ちょっと待っててね」。それしか言えない自分が、歯がゆかった。

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家屋は焼け落ち、レンガだけが残った。 – 写真提供=北川教授

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全国各地の消防車両が応援にかけつけた。 – 筆者撮影

■「ホイポイカプセル」のアイデア

翌日、岩手の花巻空港から名古屋に向かう飛行機の機内でも、前日のやりとりが頭から離れなかった北川さんは、そもそもなぜ仮設住宅の建設に何カ月もかかるのか、思いつく限りの要因をノートに記した。「(部材が)重い」「部品数が多い」「いろいろな職能の人が必要」など、数えてみると、ちょうど40個になった。

今度は、「重い」なら「軽い」という具合いに、40個すべてに対義語を書き出した。そのすべてを実現すれば、もっと早く仮設住宅を建てることができるという仮説が成り立つ。どうすればいい? と考え込んでいるうちに、名古屋空港に着いた。外はまだ肌寒く、カバンにしまっていたダウンジャケットを取り出して羽織った瞬間、脳内に電流が走った。

「カバンの中に小さく収まって、着た瞬間にもう暖かい。これってなんかあるなと思ったんです。『ドラゴンボール』のなかで小さなものがポンっと大きくなるアイテムが『ホイポイカプセル』として出てくるんですけど、そのメカニズムって誰もやっていなかったんですよね。そのメカニズムを建築に応用して、なにかできるんじゃないかと思いました」

名古屋での日常に戻ってからも、40個の対義語をどうクリアするかを考え続けた。そうして、最も重要なポイントは「空気」だと気づく。

「普通の建築って硬い、重い、(価格が)高いでしょう。硬くて重いものを使えば手間がかかって値段が上がるし、時間をかければそれだけ価値のあるものだと思って、お客さんもお金を払う。でも、被災者が使う仮設住宅もそれでいいのか。だから僕は、基本的に人が生きる際にどこにでもあって無料で使える空気を使おうと思ったんです」

空気は、トップレベルの断熱材として知られる。軽くて薄いダウンジャケットが温かいのは、羽毛や化学繊維が空気の層を形成するからだ。

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「ホイポイカプセル」から発想した屋外用のインスタントハウス。 – 筆者撮影

■閃きをもたらしたフランスパン

北川さんは、サブカルから急ハンドルを切って「空気をまとう住宅」の開発に乗り出した。風船、布団、食器洗い用のスポンジ、シャボン玉など「空気」に関わるいろいろな素材で実験を繰り返した。失敗続きだったが、それを重視した。

「多くの人は、失敗するとわかっていることはやらないと思います。でも、失敗して初めてわかることもあるんですよ。失敗しないと現場的な感覚も改善のポイントもわからない。失敗の先に、なにかあるはずなんです」

5年間、たくさんの失敗を重ねた北川さんは、2016年10月のある日、地元のイオンモールのパン屋さんでフランスパンを目にして、閃いた。

「フランスパンって外側は硬いのに、中身はフワフワで芳醇(ほうじゅん)だ。しかも、オーブンに入れたら自然に膨らむ。この構造を使えないか⁉」

にわかに頭が高速回転を始める。パズルのピースがカチカチとはまっていくように、テントシートに空気を送り込んで、内部に断熱材を吹き付けるというアイデアが思い浮かんだ。

数日後、北川さんは大学の運動場にそれまで協力してくれていた建築学の先生、断熱材メーカーの担当者、大工、学生など関係者を集めて実験を行った。そこにいる全員が「できないだろう」と考えていたし、北川さんも大きな失敗でいいと思っていた。

ところが実験開始から15分、そこにはインスタントハウスの原型ともいえる2畳ほどの空間ができあがっていた。予想外の展開に、周囲から「うわーっ!」と歓声が上がる。近くにいた4人がそれをヒョイッと持ち上げるのを見た時、北川さんは鳥肌が立った。

「ついに40項目をクリアした!」

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雪が積もっても潰れないように45度の傾斜がついている。 – 筆者撮影

■安心できる住まいを提供したい

そこからは、改良を重ねていく日々。安くて、快適で、早く簡単に建てる技術が確立されてくるにつれ、仮設住宅に限らず、土地さえあればどこにでも置けて、簡易な住まいとして使えることがわかってきた。それは、世界の経済格差や貧困問題にも貢献できる可能性を示す。

「2000年の段階で、世界の10人に1人が壁のある家に住めていないと国連の統計で出ています。建築の専門家として、そういった人たちに、ひとつでも安心できる住まいを提供してからこの世を去りたいと思うようになりました」

2018年、名工大の大学院工学研究科教授に就いた北川さんは翌年、産学連携していた株式会社LIFULLと共同で、名工大発ベンチャーの「株式会社LIFULL ArchiTech」(ライフル アーキテック)を設立。インスタントハウスを世界に広めるために、本格始動した。

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卒業生の山田さんとともに屋外用インスタントハウスの床に断熱材を敷き詰める北川教授。 – 筆者撮影

Sサイズ(5平米)110万円、Mサイズ(15平米)187万円、Lサイズ(20平米)258万円で、施工に要するのは3~4時間。断熱性が高く、夏は小型の冷風機、冬は小型のファンヒーターひとつで快適に過ごせる画期的な「家」だ。太陽光発電を活用すればオフグリッドで生活可能で、例えば学校の校舎などにも応用できるという。

多様な環境で利用できるように設計されており、屋根には雪が滑り落ちやすい45度の傾斜をつけている。また、風速80メートルの台風にも耐える強度を誇る。

発売から間もなくして新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、アウトドアブームが来た。その風に乗ってインスタントハウスは主に全国のキャンプ場で導入され、北海道から沖縄まで100棟以上販売してきた。これは図らずも、酷寒でも酷暑でも使用に耐えるという証明になった。

撮影=白石果林
発泡ウレタンを直接吹き付け断熱性能を高めている。 – 撮影=白石果林

■大地震が起きたトルコへ

2023年2月6日、ついに研究成果を見せる時が来た。トルコ南東部のシリアとの国境付近で、大地震が発生。日本赤十字の発表によると、倒壊した建物の数は数十万棟、トルコ、シリア両国で約6万人が犠牲となった。

「町がゴーストタウンに」というニュースを聞いて居ても立ってもいられなくなった北川さんは、以前から知り合いだったJICA職員の田中優子さんに連絡。トルコ事務所長の田中さんが被災したトルコ南部ガジアンテプ県アンタキヤ、ハタイ県ヌルダーの県知事や市長とつないでくれることになり、すぐ現地に飛んだ。

最初にヌルダーの町を訪ねてインスタントハウスの話をすると、すぐに具体的な話になった。担当者に100棟建てるのにどれぐらいの土地が必要かと尋ねられ、目安を示すと、「100棟分の土地を用意する」と確約してくれた。次に訪れたアンタキヤでも、歓迎された。

問題は資金。現地で断熱材の発泡ウレタンを入手するとしても、Lサイズのものを100棟建てるには1億円以上必要になる。それだけの資金調達は難しく、最終的に現地で支援活動をしていた国際協力NGOピースウィンズ・ジャパンが購入するという形で、アンタキヤに3棟寄贈された。

北川さんは4月、アンタキヤに飛び、その3棟を自ら完成させた。政府職員や被災者の住居、倉庫として使われ、「涼しい」「快適」と絶賛された。しかし、100棟建てたいと言ってくれたヌルダーのことを思うと、すぐにすべてを届けられないことがもどかしかった。

「東日本大震災以来、安くて、快適で、早く建てられる住宅を目指していたのに、インスタントハウスはトルコの仮設住宅より高価で、お金が理由で建てらなかった。自分はなんのためにやってきたんだろうと思うと、悔しかったですね」

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インスタントハウスの普及には「お金」という壁を乗り越える必要があった。 – 撮影=白石果林

■被災した子供たちを見て発した妻の一言

同年8月下旬、北川さんは妻と一緒にインドネシアのチカランにいた。トルコでの反響から、海外でもニーズがあると確信。いざというときに自分が現場に行かなくても住民が自力でインスタントハウスを建てられるように、ノウハウの伝え方や住民による作業の検証に行ったのだ。

その際に燃焼実験や耐久性の実験も行い、想像以上に構造物としての強度があることがわかり、新たな手応えを得たその帰り道。名古屋へ向かう飛行機のなかで夫婦の話題にのぼったのは、現地で目にした、手を差し出し、お金や食べ物を求めてくる子どもたちだった。同じような貧しい子どもたちの姿は、発展途上国だけでなく先進国でも見てきた。

建築学科の後輩で、北川さんの試行錯誤を一番そばで見守ってきた妻から「本当は、ああいう子たちのためにインスタントハウスを使いたいんでしょう」と聞かれた北川さんは、「そうなんだよね」と頷いた。そして、「じゃあ、やってみようか」とふたりで話し合ってから間もない翌月8日、モロッコ中部の山間部で大地震が起きる。

調べてみると、モロッコでは仮設住宅1棟が100万円弱することがわかった。トルコの時と同じ思いはしたくない。北川さんは思い切って10分の1の価格を目指した。

市販しているインスタントハウスは10年程度の利用を想定し、その間、不具合が起きないようハイスペックになっているが、仮設住宅はそこまで必要ない。テントシートの素材を変え、発泡ウレタンも高度な吹付技術が必要で価格も高いもの(独立気泡の発泡ウレタン)から、海外でも簡単に入手できるもっと安いもの(連続気泡の発泡ウレタン)に変えた。

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保温性や耐久性などを保ちながら、10分の1の価格になるよう素材や技術面を見直した。

これで、施工1時間、原価15万円の人道支援用インスタントハウスが完成。大学で実験して十分な強度があるとわかると、北川さんはモロッコにいる知り合いに連絡。「夜はとても寒い。お願いしたい」という声を聞き、スーツケースにテントシートだけを入れて現地に飛んだ。

現地で連続気泡の発泡ウレタンを調達し、ひとりで施工したところ、想定通り1時間で完成した。その様子がモロッコのテレビ、ラジオで放送されたこともあり、後日、モロッコ政府から接触があった。現在、インスタントハウスの導入について、政府関係者とやり取りを重ねているそうだ。

■二度目のトルコで悔しさを噛みしめる

その2カ月後、北川さんは再びトルコにいた。防災を担当する省庁から、災害時の仮設住宅としてインスタントハウスを導入したいと招かれたのだ。その際、副大臣との話に上がったのは、ヌルダー。そう、地震直後に「インスタントハウス100棟分の土地を用意する」と言ってくれた町だ。震災から9カ月が経ち、まだ復旧作業が続く町なかには無数の仮設住宅が立ち並んでいた。そこを副大統領と視察した北川さんは、目を疑った。

「町のメインストリートに面した一角に、100棟分の土地がきれいに整地されたまま残っていたんです。いい場所だし、もうなにかに使われているだろうと思っていたのに……」

撮影=白石果林
トルコの町ヌルダーでは今も100棟分のスペースが空いている。 – 撮影=白石果林

脳裏に蘇ったのは、東日本大震災の記憶。

仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」

トルコ政府は北川さんを歓待し、この訪問以降、人道支援用インスタントハウスの正式採用に向けて本格的に動き出した。しかし、北川さんは悔しさを噛みしめながら帰国した。

その後悔が、新たなアイデアをもたらしたのかもしれない。北川さんはコロナ禍に、感染症対策として使えるのでは、と屋内用のインスタントハウスを作り始めた。当初は屋外用のインスタントハウスを小型化したものを想定していたのだが、用途を考えると手間と時間がかかり過ぎているように感じて、開発が止まっていた。

トルコから帰った後、北川さんは「原点に返ろう」と、「宝物」というノートを開いた。それは、石巻中学校に行った翌日、飛行機のなかで「40項目」を書き記したノートだ。そのノートを見返しているうちに、閃いた。

「ダンボールで作ろう!」

思いついたら、一直線。1カ月もたたないうちにダンボール製のインスタントハウスが完成し、12月6日、7日に名古屋で開催された防災展で展示した。そして2024年1月1日、能登半島地震が発生した。名古屋の自宅にいた北川さんは展示の際に用意していた10棟分の屋内用インスタントハウスをレンタカーに積み込み、翌日には卒業生の山田さんとともに石川県に入った。

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レンタカーに屋内用インスタントハウスの資材を積み込んで被災地に向かった。 – 写真提供=北川教授

■子どもたちと建てたインスタントハウス

いくつかの避難所を巡ったなかで、最も過酷な環境だったのが輪島中学校だった。

特にアリーナは2階のガラスが割れ、凍えるような冷たい風がアリーナのなかに吹き込み、冷蔵庫のようだった。避難所の職員にインスタントハウスの話をすると、「ありがたい」ということだったので、着替えやオムツ交換、授乳スペースとして屋内用インスタントハウスを建てることにした。

写真提供=北川教授
能登半島地震の後、避難所として使用されている輪島中学校。 – 写真提供=北川教授

1月4日、ダンボールをアリーナに運び入れて作業を始めると、物珍しそうに被災者が近寄ってきた。最初の1棟に屋根を上げた瞬間、アリーナ全体から少しずつ拍手が起きた。「これなに?」と聞く子どもたちに、「みんなのお家だよ」と答える。

「一緒に作っていい?」
「いいよ」

その場にいた数人の子どもたちが、手伝ってくれた。2棟目が完成した瞬間、3歳の女の子が大きな声で「お家ができた!」と叫んだ。隣りにいた母親から、今回の地震で自宅が全壊してしまったと話を聞いた北川さんは、アリーナの外に出た。そこで堪えきれず、涙を流した。

写真提供=北川教授
輪島中学校のアリーナ(体育館)。窓ガラスが割れ、ブルーシートで覆われていた。 – 写真提供=北川教授

その後、子どもたちは屋内用インスタントハウスに絵を描いて遊ぶようになった。そこには、「ちょっとせまいけど いえかんせえ」と書かれていた。この絵と文字は、3歳の女の子と小学校1年生のお兄ちゃんが描いたものだ。取材の日、その子たちのお母さんに話を聞いた。

「初めて見るデザインで最初はなんなのかなと思ったのですけど、メルヘンチックな感じですごくいいと思います。子どもたちも一緒に作ったりして、楽しそうでした。かわいい家が完成した後も出たり入ったりして遊んでいましたよ」

写真提供=北川教授
避難所の子どもたちと一緒にインスタントハウスを組み立てた。 – 写真提供=北川教授

その後、校舎の1階と2階、屋内型広場などに計10棟を建てた北川さんは、翌日、名古屋に戻った。その際、ダンボール業者やテント屋、断熱材メーカー、運送会社と協議し、屋内用インスタントハウス110棟分の資材を調達。屋外用インスタントハウス3棟の資材と合わせて、再び輪島中学校に向かった――。

■「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた

この記事を書いている1月22日時点で、北川さんが拠点をおく輪島中学校ではアリーナに屋内用インスタントハウス250棟を建てる準備が進められており、2棟の人道支援用は、被災直後から狭い職員室での雑魚寝を強いられていた教員が寝泊まりするようになった。

今現在も支援の輪は広がっており、インスタントハウスの実費調達のために開かれた名古屋工業大学基金に寄せられた寄付は1650万円。屋内用インスタントハウス440棟分と人道支援用インスタントハウス13棟分が、主に輪島市各町の避難所に届けられる準備が整った(1月22日時点)。

冒頭に記したように、すでに被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いており、これから能登半島にたくさんのインスタントハウスが建てられる。それはまさに、東日本大震災以来、「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた男が思い描いてきた光景だ。

写真提供=北川教授
完成した屋内用インスタントハウス。側面には子どもたちの絵が描かれている。 – 写真提供=北川教授

しかし、まだ足を止めるつもりはない。北川さんの頭のなかには、さらに進化した人道支援用インスタントハウスの構想がある。世の中には、廃棄される農作物も多い。それらを使って、100%生分解性の断熱材とテントシートを作ろうとしているのだ。

北川さんが思い描くのは人間、動物、昆虫が食べられるエディブル・インスタントハウス。この話を聞いて、北川さんが学生時代に和菓子の素材で模型を作っていたことを思い出し、「お菓子の家と同じ発想ですね」というと、北川さんはいたずらをたくらむ子どものような顔で笑った。

「お菓子の家っていう人もいれば、おかしな家っていう人もいるんですけどね」

誰も想像しなかった膨らませる家を生み出した北川さんは、「おかしなお菓子の家」の実現も信じて疑わない。詳しいことは書けないが、アメリカの政府機関も、この男の創造力に注目している。北川さんはこれからも、世界の被災地を飛び回るのだろう。しかし、終着駅は決まっている。

――まだ、和菓子職人になりたいんですか?

「はい! あんな楽しい仕事、ないですから」

筆者撮影
家に困っている人を助けたい–。北川教授のインスタントハウス開発はこれからも続く。

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)