【bintoco】
2020.11.16
福山市に国宝があることを知っていますか?
広島県内7つの国宝のなかで、なんと2つの国宝は福山市に、しかも同じ場所にあるのです。
それは草戸町にある「明王院 (みょうおういん)」という寺院。
朱色をしていて高くそびえる五重塔、同じく朱色で堂々としたたたずまいの本堂が、明王院の誇る国宝。
2つの国宝は地域の宝でありシンボルとなっており、地元では親しまれています。
しかも明王院は平安時代初期に創建され、長い歴史を持っているのです。
また、江戸時代には水野勝成をはじめとする福山藩主との深い関わりもあります。
福山の歴史を語るうえで外せない史跡であり、重要文化財の宝庫ともいえる明王院の魅力や歴史について紐解いていきましょう。
記載されている内容は、2020年11月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
明王院のデータ
名称 | 明王院 |
---|---|
別名 | 中道山 円光寺 明王院 |
宗派 | 真言宗 大覚寺派 |
所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
電話番号 | 084-951-1732 |
駐車場 | あり |
御本尊 | 十一面観音菩薩 |
御利益 | 十種勝利、四種果報など |
御朱印(納経料) | あり(300円) |
拝観時間 | ・参拝:随時 ・寺務所受付:午前8時〜午後5時 |
休観日 | なし |
拝観料 | 境内の拝観料なし ※ 非公開部分の特別公開時は拝観料が必要な場合がある |
拝観料・納経料の納め方 |
|
トイレ | 洋式トイレ 和式トイレ |
ホームページ | 明王院を愛する会 |
明王院は歴史ある寺院で、国宝のほか重要文化財が多数
明王院は、福山市草戸町にある寺院です。
寺院には山号(さんごう)・寺号(じごう)・院号(いんごう)という呼び名があります。
明王院の山号は中道山(ちゅうどうさん)、寺号は円光寺(えんこうじ)、院号が明王院です。
一般的には「明王院」と呼ばれて親しまれています。
宗派は真言宗 大覚寺派(だいかくじは)です。
明王院があるのは、JR福山駅から南西へ約1.8キロメートルの場所。
芦田川の西の山際に位置し、すぐ北側には草戸稲荷神社が鎮座しています。
明王院は1200年以上の古い歴史があり、境内には国宝、国や広島県・福山市指定の重要文化財などがいくつもあるのです。
▼春には桜が咲きます。
▼秋には紅葉も楽しめるのです。
明王院は地域住民の散歩や、地元小学生の写生大会、幼稚園・保育所の遠足など、いこいの場にもなっています。
明王院は平安時代初期に常福寺という名前で創建された
創建は、平安時代初期の大同2年(807年)。
空海(弘法大師)が開いたといわれています。
また、もとは「西光山(さいこうさん) 理智院(いちいん) 常福寺(じょうふくじ)」という名前だったのです。
今の明王院の北側にある草戸稲荷神社は、もともと常福寺の鎮守として同じ年に建てられています。
さらに現在、草戸町の芦田川が流れているところには、中世に通称「草戸千軒(くさど せんげん)」と呼ばれる町がありました。
草戸千軒は当時の芦田川河口近くに位置し、港として繁栄。
また常福寺の門前町としても栄えました。
その後、江戸時代初期の承応4年(1655年)から明暦2年(1656年)のあいだに、福山藩主・水野勝貞(みずの かつさだ)によって福山城下にあった「明王院 円光寺」という寺と合併されます。
以降、名前を現在の「中道山 円光寺 明王院」に改称しました。
合併前の明王院は、もともと現在の福山市本庄地区にありましたが、いつごろからあったのかは定かではありません。
室町時代の文明3年(1471年)の記録に名前が残っているので、少なくともその時代には存在していました。
江戸時代になると、元和6年(1620年)に福山藩の初代藩主・水野勝成(みずの かつなり)の祈願寺となり、本庄から福山城下へ移転したのです。
常福寺が明王院と合併してからは、歴代福山藩主が厚く保護してきました。
なお草戸千軒の町は、度重なる芦田川の洪水被害にあい、寛文13年(1673年)の大きな洪水で壊滅し、芦田川の中州になっています。
▼また、現在の明王院の南東の河手川に架かる橋は「常福橋」という名で、かつての寺名を残しています。
ちなみに昭和56年(1981年)には、なんと今上天皇(徳仁)陛下が明王院を訪れました。
明王院の見どころ
明王院には文化財がとても多く、見どころがたくさんあります。
そこで、一部の見どころを紹介しましょう。
なお以下に紹介するもの以外にも、明王院の見どころや文化財は多数あります。
本堂 (国宝)
本堂は寺の本尊を安置している重要な建物です。
明王院の本堂は山門をくぐって正面に見えます。
この明王院の本堂は、国宝に指定されているのです。
本堂はとても古い建物で、なんと鎌倉時代末期の元応3年(1321年)に建てられました。
本堂の中に安置されている本尊・木造十一面観世音菩薩立像(じゅういちめん かんぜおん ぼさつ りゅうぞう)は、国指定の重要文化財です。
木造十一面観世音菩薩立像は、33年に一度一般公開されます。
次の公開は2024年(令和6年)の予定です。
また不定期に、本堂内の外陣(げじん=本堂内にある拝む場所)が一般公開されます。
五重塔 (国宝)
五重塔は、明王院の象徴であり、地元のシンボル的存在です。
本堂の向かって左側にあります。
なんと五重塔は、本堂と同じく国宝に指定されているのです。
朱色に塗られた美しい見た目と、29.14メートルの高さに圧倒されます。
五重塔が建てられたのは南北朝時代。
本堂が建てられた27年後となる貞和4年(1348年)に建てられました。
明王院の五重塔は、民衆が少しずつお金を出しあって建てられたものです。
貴族や武家などの権力がある人が建てることが多いと思っていたので、とても驚きました。
明王院の五重塔は、全国の五重塔で5番目の古さです。
また民衆が建てた棟としては、もっとも古いものになります。
さらに、中世密教寺院で現存唯一のものともいわれているのです。
明王院の五重塔は、本塔の心柱(中心となる柱)が一層目の天井で止まっています。
これは全国的にも珍しいそう。
五重塔の内部は、通常は非公開です。
ただし不定期に、内部(初重=1階 )が一般公開されることがあります
山門 (県重要文化財)
山門(さんもん)は、寺の入口にある大きな門です。
明王院の現在の山門は、江戸時代初期の慶長19年(1614年)に、それ以前の山門を再建したもの。
実は江戸時代初期の再建以前に使われていた部材も利用されているのです。
再建以前の部材は、室町時代のものといわれています。
明王院の山門は、広島県指定の重要文化財です。
書院 (県重要文化財)
書院(しょいん)は、山門をくぐってすぐ右手にあります。
書院とは、現代でいう書斎のようなところです。
書院のそばには庭園もあります。
明王院の書院は、広島県指定の重要文化財です。
この書院は江戸時代初期の元和7年(1621年)、福山藩初代藩主・水野勝成が福山城築城のとき、現在の福山市北部・神辺町にあった神辺城より移築されました。
通常は一般公開されていませんが、一年に数回第3土曜日に庭園・庫裏・護摩堂などともに一般公開されています。
庫裏 (県重要文化財)
庫裏(くり)は、本堂の向かって右側、書院の隣にあります。
庫裏とは寺のかたが生活に使う建物です。
また、事務作業などをおこなう寺務所(じむしょ)も兼ねています。
江戸時代初期の元和7年(1621年)、水野勝成によって書院とともに神辺城から移築されました。
明王院の庫裏は、広島県指定の重要文化財です。
庫裏の中は入口・受付の部分のみ入れますが、それ以外のところは非公開。
一年に数回第3土曜日に、書院や護摩堂・庭園などとともに公開されます。
▼入口から見える、受付横の和室はきれいに飾られています。
▼ゴールデン・ウィークに参ったときには、五月人形が飾られていました。
護摩堂 (市重要文化財)
護摩堂(ごまどう)は、福山市指定の重要文化財です。
書院や庫裏の裏のほうにあり、少し高い位置に建っています。
境内からはよく護摩堂の姿は見えません。
護摩堂は江戸時代初期の寛永16年(1639年)に水野勝成が、福山城下にあった合併前の旧 明王院円光寺に建てたものです。
その後、常福寺と明王院円光寺の合併のときに、水野勝貞が明王院円光寺より移築しました。
元禄7年(1694年)に、大きな改修がおこなわれています。
▼護摩堂から見る境内の風景は、とてもきれいです。
護摩堂は一般公開されていません。
一年に数回第3土曜日に、書院や庫裏・庭園とともに公開されます。
鐘楼 (市重要文化財)
鐘楼(しょうろう)は、寺でよく見る梵鐘(ぼんしょう=鐘)がある建物です。
明王院の鐘楼は、五重塔の前にあります。
江戸時代初期の正保4年(1647年)に水野勝成が建てたものです。
▼また鐘楼に吊されている梵鐘は、明暦3年(1657年)に水野勝貞が贈りました。
そのため鐘楼は、福山市指定の重要文化財です。
なお、お参りしたときに梵鐘を突けます。
開運大黒天
開運大黒天は、本堂と五重塔のあいだの山際にあります。
名前のとおり大黒天を祭っている祠(ほこら)です。
江戸時代半ばの享保11年(1726年)に建てられたといわれています。
長屋・地蔵堂
長屋は、五重塔の向かって左のほうにあります。
この長屋は江戸時代終わりまで、寺子屋として使われていました。
明治時代には、明王院の修理をする大工の作業場になっています。
また昭和の戦後には一時、演劇舞台にもなっていました。
▼長屋の向かって左には地蔵堂があります。
愛宕大権現
明王院の裏山は「愛宕山(あたごやま)」と呼ばれています。
山上には愛宕神社(あたご じんじゃ)、中腹には愛宕大権現(あたご だいごんげん)が鎮座しています。
▼愛宕神社・愛宕大権現への参道口は、五重塔の向かって左側、長屋とのあいだ。
▼鳥居があるのが目印です。
▼愛宕山中腹にある愛宕大権現。
▼側面には天狗の面が飾れています。
愛宕神社は江戸時代初期の寛永5年(1628年)に、水野勝成によって建てられました。
福山城の火よけの守護(守り神)するためです。
愛宕神社は明王院を別当寺(べっとうじ=神社を管理する寺)としました。
明治になって神仏分離のために、以降は愛宕神社は草戸稲荷神社に属しています。
神仏分離のとき、中腹に愛宕大権現が建てられました。
愛宕大権現は明王院に属しています。
なお、愛宕神社の本殿は福山市指定の重要文化財です。
草戸千軒町遺跡出土墓石群 (市重要文化財)
草戸千軒町遺跡出土墓石群は、愛宕神社への参道脇にあります。
境内から鳥居をくぐって、参道を少し進んだところの進行方向左側です。
たくさんの大小の石塔が並んでいます。
これらは鎌倉時代後期から室町時代の草戸千軒町にあった墓です。
昭和5年(1930年)に、明王院そばの芦田川の改修工事がおこなわれました。
そのときに川の中からたくさんの墓石が発見されたのです。
それらを明王院へ移転しました。
墓石群は、福山市指定の重要文化財です。
閻魔堂/十王堂
明王院の塀を抜けてすぐ左手にある建物は、閻魔堂(えんまどう)。
十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれます。
江戸時代初期の慶長年間に再興され、平成2年(1990年)に再建されました。
閻魔堂には閻魔大王と、ほか十王が祭られています。
七福神・弁天池
境内の南の外れに七福神像が並んでいます。
▼その後ろには池(弁天池)がありました。
▼池の中央には弁財天(べんざいてん)像。
▼6〜7月ごろには、池にスイレンの花が咲きます。
▼また秋が深まってくると、美しい紅葉が見られるのです。
▼池のほとりからも五重塔が見えます。
徳川家光公位牌
徳川家光(とくがわ いえみつ)といえば、江戸幕府三代将軍ですよね。
その徳川家光の位牌(いはい)が、なんと明王院にあるのです。
どういう経緯で明王院に家光の位牌があるのかは、まだ解明されていません。
家光の位牌はふだん一般公開されていませんが、毎年4月にのみ特別公開されます。
位牌はかなり大きいそうです。
明王院の御朱印
明王院では、御朱印をいただけます。
御朱印が欲しい場合は、庫裏の入口をくぐってすぐの受付でもらいましょう。
人がいないときは、庫裏入口左側にあるインターフォンを鳴らしてください。
御朱印をいただくときには、300円の納経料を納めましょう。
明王院のおもな行事
明王院では、さまざまな行事がおこなわれます。
▼以下は、代表的な行事です。
行事 | 時期 |
---|---|
庫裏・書院・護摩堂・庭園などの一般公開 | 年数回 第3土曜日 |
愛宕大権現大祭 柴燈(さいと)大護摩供 火渡り神事 | 旧暦1月24・25日 |
徳川家光位牌 一般公開 | 4月 |
国宝明王院初夏の文化展 | 6月 |
三人姉妹の朗読会 | 10月 |
紅葉と歴史まつり(五重塔初重開扉、一挙建築物公開) | 11月 |
ほかにも行事がおこなわれます。
詳細は、「明王院を愛する会」の公式サイト等を参考にしてください。
なお状況により行事がおこなわれないこともあります。
2棟の国宝建築物をはじめ、たくさんの文化財や見どころがたくさんある、歴史ある寺・明王院。
明王院についての思いなどを、住職を務める片山 弘雄 (かたやま こうおう)さんに聞いてみました。
明王院のデータ
名称 | 明王院 |
---|---|
別名 | 中道山 円光寺 明王院 |
宗派 | 真言宗 大覚寺派 |
所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
電話番号 | 084-951-1732 |
駐車場 | あり |
御本尊 | 十一面観音菩薩 |
御利益 | 十種勝利、四種果報など |
御朱印(納経料) | あり(300円) |
拝観時間 | ・参拝:随時 ・寺務所受付:午前8時〜午後5時 |
休観日 | なし |
拝観料 | 境内の拝観料なし ※ 非公開部分の特別公開時は拝観料が必要な場合がある |
拝観料・納経料の納め方 |
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トイレ | 洋式トイレ 和式トイレ |
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