大軍に勝利する武将はどんな戦術を使っているか。歴史家・作家の加来耕三さんは「“生涯無敗”の戦国武将・立花宗茂は少数の兵をもって大軍を討ち破り、不利な局面を有利に一変するのが得意な奇跡の武将だった。宗茂は敵の布陣を徹底的に調べて、ウィークポイントを探し出し、軽く突いて目算をつけた後、合戦ではそこを狙って集中攻撃を加えた。小さな単位を次々とつぶして勝利をつかんだ宗茂の戦い方は、現代のビジネスでもそのまま実践することができる」という――。

※本稿は、加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

毎年7月に福島県相馬市で開催される「野成相馬」

写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです

大軍に戦術はいらないが、弱者には戦術が必要

小よく大を制す――戦術の力で、戦略の劣勢をひっくり返した例といえば、

“日本三大奇襲戦”の一つに、幕末の歴史家・頼山陽らいさんようが数えた「桶狭間の戦い」(1560年・永禄3年)が、真っ先に思い浮かびます。

実兵力2万5000の今川義元の大軍に対して、挑む織田信長はわずか3000弱ほどの兵力しかありませんでした。しかし、皆さんもご存知のように、信長はわずかな兵力で奇襲を敢行し、今川軍を尾張おわりから撃退しました。

今川軍にすれば、負けるはずのない戦いであったはずです。味方は2万を超える大軍であり、敵はわずかに3000なのですから、戦力の実力は、自乗に比例する――数の力で正攻法に押せば、簡単に勝てる、と義元は考えていたことでしょう。

わずか3000の兵を相手に、細々とした作戦を立てる必要はない、と考えていた今川方は、敵将である信長のことを一切リサーチしていませんでした。

彼について少しでも調べていれば、信長が無鉄砲に思われる性格で、一か八か運を天に任せて、今川の本陣を探しつつ、突っ込んでくる可能性がある、と予測できたはずです。

しかし義元は、2万5000の兵をもって信長の居城・清州(清須)城を取り囲めば、すぐに相手は降参するだろう、と漠然と(「戦術」一つ持たずに)考えていました。

信長が劣勢をもって、清洲城を打って出て、今川の本陣めがけて襲ってくるという発想が、義元にはそもそも浮かばなかったのです。

織田勢に奇襲された後も、今川軍にはまだ勝ち目――少なくとも敵将信長を葬る――がありました。

なにしろ兵の数では、敵を圧倒していたのです。奇襲されても冷静に、これを迎え撃っていれば、当初は混乱しても、ついには返り討ちにできたはずです。

ところが今川軍は、ろくに警戒することもなく、各隊が分散して各々、食事をとっていました。敵地であるというのに、見張りも適当にしか立てず、すっかり油断していたのです。