考える主権者をめざす情報誌【Voters-52】
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明るい選挙推進協会とは
明るい選挙推進協会は、全国の都道府県・市区町村の「明るい選挙推進協議会」を会員とした公益財団法人です。(元総務省自治行政局(旧自治省)所管))
明るい選挙推進運動の全国組織として、明るい選挙の実現を目標に、全国約8万人のボランティアの方々とともに活動しています。
全国のボランティアの方々は、各自治体に設置されている「明るい選挙推進協議会」の委員、推進員、協力員等として、各地域において「明るい選挙推進運動」を展開しています。
私たち「明るい選挙推進協会」は、これらの団体に冊子や啓発資材を送ったり、委員等の研修会を開催するなどの支援を行うほか、総務省、各自治体の選挙管理委員会と連携し、選挙違反のないきれいな選挙、投票参加及び国民の政治意識の向上等を図るための事業を行っています。
協会の沿革
昭和27年:「公明選挙連盟」(昭和27年12月財団法人化)
前田多門氏などの有志が、言論、実業、経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて結成。
昭和40年:「明るく正しい選挙推進全国協議会(略称 全推協)」(昭和42年8月財団法人化)
運動をより効果的に推進するために中心的原動力として発足
昭和49年:「明るい選挙推進協議会」
各方面からの要望により名称を簡素化
昭和51年:「明るい選挙推進協会」(昭和51年7月財団法人化)
(財)公明選挙連盟と(財)明るい選挙推進協議会が発展的に解散し合併
平成25年:「公益財団法人 明るい選挙推進協会」
公益法人制度改革に伴い、公益財団法人に移行
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 – 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家、実業家、文筆家。
大阪府出身。喜兵衛の長男[1]。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり[3]、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。
1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、1943年新潟県知事など歴任。
1945年(昭和20年)貴族院議員となり(1946年(昭和21年)6月25日まで在任[4])、東久邇宮内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが公職追放となった。1946年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。
財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。学外では内村鑑三の聖書研究会に入門、新渡戸と内村から多大なる影響を受ける。晩年に新渡戸と同じくクエーカー[※]に入信。
[1]『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)より
[2]越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』平成23年(2011年)169-170、192-193頁。
[3]畳の旧字体「疊」は3つの「田」の下に「宜」があり、後藤はこれをもじって「田」の字を名前に含む永田・池田・前田の3人に市政を任せれば「宜(よろ)しい」と称した。越澤、同上、193頁。
[4]『官報』第5836号、昭和21年6月29日。
[※]クエーカー(Quaker)は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(キリストゆうかい、Religious Society of Friends, フレンド派とも)に対する一般的な呼称である。友会は、17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。
一部「wikipedia」より引用/2021.5.10
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