2021.10.31ブログ一覧, ●政治ニュース
いつも、鞄のなかに入れて持ち歩いている名著「職業としての政治」
12日間の選挙運動期間を終えました。
本日は、投開票日です。
今回の総選挙を通じて、あらためて政治や政治家は、どうあるべきか選挙運動に携わりながら考えてました。
いつも、鞄のなかに入れて持ち歩いている名著「職業としての政治」。 今から100年前以上に社会学者マックス・ウェーバ―が著した古い本ですが、この中に書かれている内容は、今も昔も変わらないと感じています。
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。」
情熱と判断力で、日本の未来を切り拓くリ―ダ―を選ぶ衆議院議員選挙です。
皆様の、貴重な1票を投じていただきたいと思います✨
2021年10月31日にブログへ投稿した「いつも、鞄のなかに入れて持ち歩いている名著『職業としての政治』」記事を読み返しておりました。
今から100年前以上に社会学者マックス・ウェーバ―が著した本です。
このことについて成蹊大学法学部教授 野口 雅弘氏が情報誌「ボゥターズ」へ寄稿されていましたのでご紹介いたします。
今のコロナ禍と同様に、当時スペイン風邪(論文「随想録」中では、スパニッシュ・インフルエンザと表現されています)の第3波が襲い、社会的にも混乱の時代でもありました。
混迷した世の中であるがゆえに、これからの政治リーダーを選ぶ上で重要な視点だと考えます。
政治家の仕事
ウェーバー「仕事(職業)としての政治」への案内
成蹊大学法学部教授 野口 雅弘
今年中に総選挙が行われる。なにを判断基準にして投票するか。このエッセーでは、投票のときに参考になりそうな論点を中心に、マックス・ウェーバーの「仕事としての政治」(「職業としての政治」)を紹介する。
暴力を扱う仕事
マックス・ウェーバーの「仕事としての政治」は、1919年 1 月28日にミュンヘン大学近くの書店で行われた講演である。彼はキーワードを殴り書きした数枚のメモだけをもって登壇したという。
この年の 1 月のドイツは、とにかく緊迫していた。ベルリンで蜂起したカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが殺害され、第一次世界大戦の戦後処理のためにパリ講和会議が始まり、ワイマール憲法制定に向けてドイツ国民議会選挙が行われた。ナチ党の前身であるドイツ労働者党(DAP)が設立されたのもこの1 月だった。スパニッシュ・インフルエンザの第 3 波が襲ってきてもいた。
支配のレジティマシー(正統性)は不安定で、暴力も身近なところにあった。こうした敗戦と革命の時代に、戦場から戻ってきた若い聴衆に向けて、ウェーバーは「政治家の仕事」について語った。
冒頭でウェーバーは政治を定義するなかで、暴力の問題に注意を向ける[脇訳8-10、野口訳92-93]。以前ある学生から、この本を読み始めたが最初の数ページで挫折したといわれたことがある。なぜそこまで暴力にこだわるのかが理解できなかったということらしい。これに対して例えばジョン・ロールズであれば、「相互利益を目指した協働的な企て」という観点から政治理論を語る。このほうが今の私たちにとっては遥かにしっくりくる。
それでも、政治はまずはなんといっても警察や軍隊といった「物理的暴力行使」にかかわる仕事だ、とウェーバーはいう。こうした理解は先程述べたような歴史的背景によるところが大きい。しかしだからといって彼の議論は「時代遅れ」だとして無視するわけにもいかない。人種差別反対の運動が全米で拡大するなか、トランプ大統領は米連邦軍の投入をほのめかした。また政権移行を拒否する一連の迷走のなかで、この人が核兵器のボタンを握っているということを思い出して、背筋が寒くなった人もいるだろう。政治リーダーは暴力や強制力を扱う。そうであるからウェーバーは政治家の資質として「目測能力」を挙げる。些細な問題で過剰な手段を行使してはならないし、感情的になって「距離感を失う」ことはあってはならない[脇訳90-91、野口訳180-181]。
不正や混乱に直面して、最低限の強制力が必要とされることはある。しかし、圧倒的な暴力を手に入れてしまうことに恐怖心をもたない人、あまりに軽率に軍事的な強行策を口にしてしまう人、そもそも日常的に自制心がない人は、政治家に適していない。自分が投票しようとしている候補者が「暴力装置」を扱う人物として大丈夫なのかという観点は次の選挙でも重要でないはずはない。
「政治で生きる」と「政治のために生きる」
2017年の総選挙のとき、民放の開票特番で、ジャーナリストの池上彰が自民党の小泉進次郎にインタビューをする 1 コマがあった。「マックス・ウェーバーの「職業としての政治」を読んだか」という質問に対して、「あの中身は共感する部分がいっぱいあるんですけど、タイトルは同意できません」と小泉は答えた。そしてその理由として「政治は職業だと思わないからです。生き方です」と述べた。
このやりとりからだけでは、小泉がこの本をどれくらいちゃんと読んだのかはわからない。しかし、彼の違和感は理解できる。ドイツ語のベルーフ(Beruf)には 2 つの意味がある。一方は「職業」、つまり「日常従事する業務。生計を立てるための仕事」(『広辞苑』第 7 版)という意味であり、他方は(神から与えられた)「使命」を帯びた仕事という意味である。小泉はおそらく政治はたんにお金を稼いで、生計を立てるための「職業」ではなく、人生の全体を要求される営みだということをいいたかったのだろう。
脇圭平訳の『職業としての政治』でも、ベルーフの訳語は「職業」だけではない。「使命」や「天職」も用いられている[脇訳13, 14, 85, 95, 119,121, 122、野口訳97, 100, 176, 184, 214, 216,218]。拙訳のタイトルを「職業として」ではなく「仕事として」にしたのも、ベルーフの意味の二重性を表現するためだった。
ウェーバー自身も「政治で生きる」と「政治のために生きる」を区別して論じている[脇訳24-25、野口訳110-111]。もちろんそれほどハッキリと区別できるわけではないが、人生を賭けて政治の「ために」生きている人もいれば、政治「で」儲けているだけではないかと疑いたくなるような議員もいなくはない。また、とくに資産をもっていない普通の人(「サラリーマンの娘・息子」)にとっては、政治「で」生活が成り立つということは、政治活動の不可欠の条件である。
国民に負担をお願いするのだから、議員みずから「身を切る」改革が必要だといわれることがある。その通りだと思うことも多い。しかし、「身を切る」ことがなんらかの資産やアドバンテージをもたない人を政治の場から排除することになるとしたら、それでいいのかどうか。ウェーバーは「プルートクラシー」という言葉を用いている[脇訳26、野口訳112-113]。これは「経済的に恵まれた少数者の支配」を意味する。
社会的・経済的格差が深刻化するなかで、なんの「ために」政治家をやっているのかという観点とともに、政治「で」生計が立つという条件を確保するという視点もますます重要になっている。近年の政治家の不祥事をみると、一般の人びととの感覚の乖離を感じることが多い。政治家の階層が固定化し、世襲が増えれば、政界のダイバーシティは失われ、こうした乖離はさらに拡大する。
政治は「硬い板に穴をあける」仕事?
「仕事としての政治」の最後の段落で、ウェーバーはこう述べている。「政治というのは、硬い板に力強く、ゆっくりと穴をあけていく作業です。情熱と目測能力を同時にもちながら掘るのです」[脇訳122、野口訳217]。
お気に入りの一節として、この箇所を引用する政治家も多い。なにかを実現しようとすると、異なる考えの人たちには反対され、これまでの秩序で利益を得てきた人たちからは抵抗される。前例を好む公務員からもいい顔をされない。彼らと議論し、彼らを説得し、利害を調整し、なにかを成し遂げた経験がある政治家であれば、この一節に感銘を受けるのもよく理解できる。
優柔不断だったり、すぐに挫けたり、無節操な政治家というのは困りものである。しかし、「硬い板に穴」という箇所を引用する政治家がいたら、その人がいったい「なに」を実現しようとして、「なに」と闘っているのかをよくみなければならない。「なにか」に対するコミットメントのないところには、「情熱」は生まれない[脇訳89、野口訳180]。
公務員(官僚)は「憤りも偏りもなく」仕事をしなければならない。これに対して「政治家は闘争しなければならない」とウェーバーはいう[脇訳46、野口訳134-4]。「闘争」というのは喧嘩や権力ゲームという意味ではない。私たちの社会には、さまざまな価値観をもつ人たちが共存している。そうした多元性のもとで一緒になにかをするためには、方向性をめぐってちゃんと論争をしなければならない。相手の意見に耳を傾け、自分の考えをわかりやすく述べ、争点を明らかにしたうえで決断する。こうしたことをプロとして行うのが政治家である。彼らは耳を塞いで、思考を停止して、ただ一生懸命に「穴掘り」をしていればいい人たちではない。
選挙というのは、方向性をめぐる対抗が顕在化する機会である。コロナ対策、オリンピック・パラリンピック、経済政策、夫婦別姓、そして原発も含めたエネルギー政策などについて、従来の政権与党の政策を複数の選択肢の 1つとし、他の政党が提示する選択肢と比較しながら、私たちの社会の方向を選び直す機会を提供するのが選挙である。
ここで大事なのは、やっている姿勢を評価することではない。少なくともそれだけではない。その政治家が「なに」を実現しようとし、「なに」と闘っているのかを見極めて、私たちは投票する必要がある。
ウェーバーを介して政治家を知る
責任倫理と信条倫理の対立[脇訳103-104、野口訳194-196]や政党組織とカリスマの問題[脇訳85-86、野口訳176]など、紙幅の関係で論じることができなかった論点がたくさんある。あとは各自でお読みいただきたい。そして集会やSNS上などで候補者と対話する機会があれば、「ウェーバーの「仕事としての政治」をお読みになりましたか」と尋ねてみるといいと思う。
ウェーバーは「きれいごと」に潜む矛盾や葛藤にとても敏感な人だった。彼はしばしば人が嫌がることを口にした。「仕事としての政治」と対になる講演「仕事としての学問」でも、自分の立場にとって「都合が悪い事実」に向きあうことの意味を、彼はとくに強調している[野口訳64]。
選挙カーから連呼される候補者の名前やキレイに編集された短い動画だけで、政治家を評価するのは難しい。候補者を吟味するためには、それ以外のなんらかの手がかりが必要となる。
「仕事としての政治」を政治家がどう読んでいるかを知ることは、そうした手がかりの一つになる。
この本の理解について話しをすることは、政治家としては怖いことかもしれない。自分の見識のレベルを晒すことにもなりかねない。しかし、それをわかったうえで、有権者とウェーバーの読書会をするなどして、対話を試みる政治家がいれば、どのような立場の人であれ、私はその人を応援したいと思う。
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<参考文献>
・ウェーバー、マックス(脇圭平訳)『職業としての政治』(改版、岩波文庫、2020年)
・ウェーバー、マックス(野口雅弘訳)『仕事としての学問 仕事としての政治』(講談社学術文庫、2018年)
*引用は基本的に拙訳を用いている。[]内の数字は各訳書の該当ページ。
のぐちまさひろ 1969年生まれ、立命館大学教授等を経て2017年より現職。ボン大学哲学部で博士号取得(Ph.D.)。専門は政治学・政治思想史。著書に『マックス・ウェーバー』(中公新書、2020年)、編著に『よくわかる政治思想』(ミネルヴァ書房、近刊予定)等。
(以上、情報誌「Voters」61号より)
情報誌「Voters」61号
明るい選挙推進協会HP
情報誌「Voters(ボウターズ)」一覧ページ
明るい選挙推進協会とは
明るい選挙推進協会は、全国の都道府県・市区町村の「明るい選挙推進協議会」を会員とした公益財団法人です。(元総務省自治行政局(旧自治省)所管))
明るい選挙推進運動の全国組織として、明るい選挙の実現を目標に、全国約8万人のボランティアの方々とともに活動しています。
全国のボランティアの方々は、各自治体に設置されている「明るい選挙推進協議会」の委員、推進員、協力員等として、各地域において「明るい選挙推進運動」を展開しています。
私たち「明るい選挙推進協会」は、これらの団体に冊子や啓発資材を送ったり、委員等の研修会を開催するなどの支援を行うほか、総務省、各自治体の選挙管理委員会と連携し、選挙違反のないきれいな選挙、投票参加及び国民の政治意識の向上等を図るための事業を行っています。
協会の沿革
昭和27年:「公明選挙連盟」(昭和27年12月財団法人化)
前田多門氏などの有志が、言論、実業、経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて結成。
昭和40年:「明るく正しい選挙推進全国協議会(略称 全推協)」(昭和42年8月財団法人化)
運動をより効果的に推進するために中心的原動力として発足
昭和49年:「明るい選挙推進協議会」
各方面からの要望により名称を簡素化
昭和51年:「明るい選挙推進協会」(昭和51年7月財団法人化)
(財)公明選挙連盟と(財)明るい選挙推進協議会が発展的に解散し合併
平成25年:「公益財団法人 明るい選挙推進協会」
公益法人制度改革に伴い、公益財団法人に移行
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 – 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家、実業家、文筆家。
大阪府出身。喜兵衛の長男[1]。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり[3]、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。
1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、1943年新潟県知事など歴任。
1945年(昭和20年)貴族院議員となり(1946年(昭和21年)6月25日まで在任[4])、東久邇宮内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが公職追放となった。1946年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。
財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。学外では内村鑑三の聖書研究会に入門、新渡戸と内村から多大なる影響を受ける。晩年に新渡戸と同じくクエーカー[※]に入信。
[1]『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)より
[2]越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』平成23年(2011年)169-170、192-193頁。
[3]畳の旧字体「疊」は3つの「田」の下に「宜」があり、後藤はこれをもじって「田」の字を名前に含む永田・池田・前田の3人に市政を任せれば「宜(よろ)しい」と称した。越澤、同上、193頁。
[4]『官報』第5836号、昭和21年6月29日。
[※]クエーカー(Quaker)は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(キリストゆうかい、Religious Society of Friends, フレンド派とも)に対する一般的な呼称である。友会は、17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。
一部「wikipedia」より引用/2021.5.10
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