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【情報誌Voters】民主政とコロナとの戦い/(公財)明るい選挙推進協会会長 佐々木 毅氏

今から100年前以上に社会学者マックス・ウェーバ―が生きた時代と似通った今のコロナ禍。
(公財)明るい選挙推進協会会長 佐々木 毅氏が時代をひも解き照らし合わせて情報誌「ボゥターズ」へ寄稿されています。
コラムは連載となっていますので、二つの記事に分けてこのHPでご紹介いたしました。
混迷した世の中であるがゆえに、これからの時代の政治リーダーを見極める重要な視点だと思います。


民主政とコロナとの戦い
(公財)明るい選挙推進協会会長 佐々木 毅

新型コロナウイルス感染症の世界的流行に先立って、先進民主政は格差の拡大という問題に直面した。その根本原因は経済のグローバル化であるという見方が広がり、かつてグローバル化の騎手であった国々の中下層階級の間でポピュリズムが勢力を増した。それはアメリカにおけるトランプ主義の台頭やイギリスのヨーロッパ連合からの脱退をもたらした。当時、格差の拡大問題はダボス会議などでも問題になっており、迫りくるデジタル革命は更に格差の拡大問題を深刻化させ、民主政と経済システムとの緊張関係を高めるという見通しが一般的であった。
そうこうしているうちにコロナの流行が拡大し、デジタルトランスフォーメーションへと世界は雪崩を打って動き出した。しばしば言われるようにパンデミックには有無を言わさずに変化を加速する傾向がある。世の中には「コロナ以前」の世界に戻ることを希求する声が少なくないが、「コロナ以後」の世界がそうした希望に叶うようなものである保証はない。悪くすると、格差問題も以前よりもひどくなる可能性を見ておかなければならない。
ところで20世紀の冒頭の世界では猛烈な格差があったが、それが70年代中盤には史上類を見ないほど格差は縮小したことを前回のこの欄で述べた。これは一部の先進国で見られた現象であったが、民主政と平等化との結びつきを示す実例として、しばしば言及されてきた。歴史の黄金時代というものは概して短いものである。
多くの論者によると、この平等化はこの時代の特異な経験と離れては考えられない。先ず、二つの世界大戦があった。それらは膨大な人命を犠牲にしたのみならず、資本の物理的な大量破壊を強制した。その上、二つの世界大戦の間には大恐慌と金本位制の崩壊があり、富の大規模な破壊を市場メカニズムが強要した。その他、大小さまざまな革命が破壊に一役を買った。総じて膨大な富の破壊が極端な格差を是正し、平等化へのお膳立てをしたことになる。
中産階級が多数を占める政治体制を創設したのは民主政の成果であり、その継続的な努力の賜物であった。その思想的なバックボーンは市場を絶対視しない一種の自由主義であり、政府の所得再分配機能を肯定的に捉え、経済活動に対する政府の広範な介入を容認した。
また、ブレトンウッズ体制の下、政府は為替レートに対して責任を負い、経済活動に対して膨大な権限を有していた。しかし、ニクソン・ショック(1971年)以来、政府の役割の縮減と市場主義への逆転が継続的に進み、政府は問題解決者であるよりも「問題そのもの」であるといった批判が広がった。その結果、政府の役割は市場機能の活性化に専ら奉仕するものとされた。
次に政府の役割を見直すきっかけが、コロナウイルスとの戦いではなかったか。国民の生命を守るために積極的な任務遂行を求められるに至った。「経済活動の自由」などに対して一定程度規制する権力も承認された。企業のあり方を問い直したり、法人税の引き下げ競争に対する批判的な意見も目につくようになった。このようにコロナウイルスの大流行は政府の役割の見直しにまたとない機会となったということができよう。
世界大戦や大恐慌は政府の役割の大規模な見直しをもたらしたが、それに比べれば現在のそれは慎ましいものでしかない。しかし、この政府の復権も多くの人間の犠牲の上に成立している。それをどう発展させ、どのような問題との取り組みに使うか、民主政はその創造性を試されることになる。それをひたすら感染症対策のために使うのか、それとも格差問題や環境問題などとの取り組みに使うのか、それを決めるのはそれぞれの民主政の選択に委ねられる。その意味でも、ポストコロナとは「コロナ以前」に戻ることではない。
(以上、情報誌「Voters」62号より)

情報誌「Voters」62号



明るい選挙推進協会HP

情報誌「Voters(ボウターズ)」一覧ページ

明るい選挙推進協会とは

明るい選挙推進協会は、全国の都道府県・市区町村の「明るい選挙推進協議会」を会員とした公益財団法人です。(元総務省自治行政局(旧自治省)所管))
明るい選挙推進運動の全国組織として、明るい選挙の実現を目標に、全国約8万人のボランティアの方々とともに活動しています。
全国のボランティアの方々は、各自治体に設置されている「明るい選挙推進協議会」の委員、推進員、協力員等として、各地域において「明るい選挙推進運動」を展開しています。
私たち「明るい選挙推進協会」は、これらの団体に冊子や啓発資材を送ったり、委員等の研修会を開催するなどの支援を行うほか、総務省、各自治体の選挙管理委員会と連携し、選挙違反のないきれいな選挙、投票参加及び国民の政治意識の向上等を図るための事業を行っています。

協会の沿革

昭和27年:「公明選挙連盟」(昭和27年12月財団法人化)
前田多門氏などの有志が、言論、実業、経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて結成。
昭和40年:「明るく正しい選挙推進全国協議会(略称 全推協)」(昭和42年8月財団法人化)
運動をより効果的に推進するために中心的原動力として発足
昭和49年:「明るい選挙推進協議会」
各方面からの要望により名称を簡素化
昭和51年:「明るい選挙推進協会」(昭和51年7月財団法人化)
(財)公明選挙連盟と(財)明るい選挙推進協議会が発展的に解散し合併
平成25年:「公益財団法人 明るい選挙推進協会」
公益法人制度改革に伴い、公益財団法人に移行


前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 – 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家、実業家、文筆家。
大阪府出身。喜兵衛の長男[1]。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり[3]、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。

1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、1943年新潟県知事など歴任。

1945年(昭和20年)貴族院議員となり(1946年(昭和21年)6月25日まで在任[4])、東久邇宮内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが公職追放となった。1946年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。

財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。学外では内村鑑三の聖書研究会に入門、新渡戸と内村から多大なる影響を受ける。晩年に新渡戸と同じくクエーカー[※]に入信。

[1]『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)より
[2]越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』平成23年(2011年)169-170、192-193頁。
[3]畳の旧字体「疊」は3つの「田」の下に「宜」があり、後藤はこれをもじって「田」の字を名前に含む永田・池田・前田の3人に市政を任せれば「宜(よろ)しい」と称した。越澤、同上、193頁。
[4]『官報』第5836号、昭和21年6月29日。
[※]クエーカー(Quaker)は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(キリストゆうかい、Religious Society of Friends, フレンド派とも)に対する一般的な呼称である。友会は、17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。
一部「wikipedia」より引用/2021.5.10


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