2022年7月1日更新
1945(昭和20)年8月8日の空襲により焼失した福山城の天守は、城郭建築の集大成といえる完成された構造で築かれていました。
五重五階地下一階の層塔型で、一階部分が9間×8間(約20m×18m)あり、東側には二重三階の付庇(ひさし)を設けた複合式の天守でした。
天守の中心を支える心柱と身舎(もや)を形作る柱は、地階から最上階まで位置を揃えて二階ずつの通し柱で立ち、これらを太い梁(はり)でつなぐことで、構造的に安定した強固な造りとなっていました。
この天守の柱を支えていた礎石は今も見ることができます。1966(昭和41)年に天守を再建する際、天守台に残されていた礎石は同じ配置のまま180度向きを変えて、天守の北側に移され、保存されました。
心柱と身舎柱を支えていたのは一辺約40cmの19個の石です。心柱のために中央に1つ、残り18個が身舎柱用に四角形に配置されています。これらの石は上面を平たく滑らかに整え、地上に露出するように据えられ、五階地下一階の天守を支えていました。身舎を囲む廊下を支えていたのは一辺約30cm、小さめの25個の石です。やはり上部を平滑に整え、身舎の礎石の外側にぐるりと配置されています。
礎石が移された場所からはこの度の修理により鉄板が張られた天守の北側を見ることができます。福山城の最も古い礎石と、美しく修復された天守を同時に見てみませんか。
<天守の北側に保存・展示してある礎石>
<福山城旧天守礎石位置図>
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