地形を利用した天然の城塞 小丸山
福山城は東・南・西に二重の堀を巡らせていましたが,城背(北側)には人工的な防護施設は造られませんでした。そのため福山城の北西に位置する小丸山を,東隣の小丘松山とともに自然の地形を利用した天然の防護としました。いわば北側の曲輪であり,城郭の重要な役割を担っていました。
水野時代の福山城絵図には小丸山の北裾を掘りくぼめた場所に「エンセウグラ」と記された2棟の建物が描かれています。これは鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で,軍事拠点でもあったことが分かります。
また幕末の動乱の最中には藩内で最も激しい戦場となりました。1868年(慶応4年)正月,幕府側であった福山の城下は討幕派の長州軍に囲まれます。小丸山は前年に亡くなった藩主阿部正方のひつぎが仮埋葬されており,少年隊が警護をしていました。この少年隊が阿部神社赤門西側から迫った長州軍を退けたのです。この後,福山藩は長州と和議を結び,討幕派となりました。
このように小丸山は,城郭の一部であると共に明治維新の福山藩の動向を決した歴史的な場所として,1973年(昭和48年)5月24日に福山市史跡に指定されました。
現在この丘には水野勝成寿碑,寺地舟里碑,江木鰐水碑といった、福山の歴史を築いた人々の業績をしのぶ石碑が設置され,「先人の森」として親しまれています。
<ふくやま美術館横から小丸山を見る>
<水野勝成寿碑>(左)
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