今から100年前以上に社会学者マックス・ウェーバ―が生きた時代と似通った今のコロナ禍。
(公財)明るい選挙推進協会会長 佐々木 毅氏が時代をひも解き照らし合わせて情報誌「ボゥターズ」へ寄稿されています。
コラムは連載となっていますので、二つの記事に分けてこのHPでご紹介いたします。
混迷した世の中であるがゆえに、これからの時代の政治リーダーを見極める重要な視点だと思います。
情報誌「Voters」61号より
民主制と利益政治
(公財)明るい選挙推進協会会長 佐々木 毅
民主制は歴史上、実に多様な相貌を示してきた。民主制は歴史を創ったが、歴史が民主制の姿形を枠づけてきた。政治的な意思決定の仕組みとしての民主制は一つであるが、その相貌は目まぐるしく変わってきたのであって、それを観察することは民主制を理解する上で欠かすことができない。
今から百年余り前、スペイン風邪で亡くなったマックス・ヴェーバーは、到来した大衆民主制の時代の民主制のあり方を次の二者択一で特徴づけた。すなわち、指導者に従順に従う組織を率いるデマゴーグ的指導者民主制か、指導者なき民主制、つまり「天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶか」であると。
このうち、指導者民主制はリーダーとフォロアーの強い非対称性によって特徴づけられる、一種のエリート支配である。カリスマという言葉は両者の隔絶した関係を端的に示している。このエリートの指導性というべきものがいかなる形で発揮されたかといえば、典型的にはプロパガンダ(イデオロギー)の動員、更には暴力(テロ)の駆使であった。政治的出世のためにはこの二つの能力が必須とされたわけであるが、それは当時の民主制が経済を含む既成秩序の崩壊と革命的状況に置かれていたことと切り離せない。
第二次世界大戦後、ヴェーバーのような二者択一論は教室以外ではお目にかからなくなった。われわれはカリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配に考えもしないで何十年も安住している。今や、カリスマ経営者やカリスマ美容師を耳にすることはあっても、カリスマ政治家にはなかなかお目にかかることはない。リーダーとフォロアーの非対称性はどうして雲散霧消したのであろうか。
その原因は政治が利益政治化したことにある。リーダーとフォロアーの非対称性論の根拠は、多くの人々は身の回りの事柄については正しく判断できるが、遠い事象については情報もなければ関心もなく、従ってその判断は当てにならないという点にあった。ところが利益政治は正に身近なことで政治を判断することを可能にした。両者の関係は利益と票との取引関係に似てくる。この取引関係が波乱なく維持される限り、両者の関係は平等化し、安定する。カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配に別に不都合はない。
ここで民主制は安定した経済環境に依存している。特に、経済が順調に成長し、有権者との安定した関係を再生産する余力があれば更に好ましい。しかし、実際に利益政治で起こったより重要なことは、所得の格差がかつてなかった程に縮減した、大量の中間層からなる「20世紀型システム」を生み出したことにある。1970年代まで実在したこの「20世紀型システム」は二つの世界大戦とその後の政治的取り組みの所産であり、ポピュリズムを含む民主制の現状に対する不満の背後にはこのシステムの記憶がある。そして格差問題は依然として避けて通れない問題であり続ける。
コロナ禍の下、大量失業が広がり、デジタル化の急速な進行の中で格差が一段と広がっている。
K字型回復と言われるように、上下に向かう線の距離は乖離するばかりだという。現実経済の低迷の一方で、急速に上昇する株価はK字型経済を象徴する存在である。実際、富裕層はこの上昇から膨大な富を得た。また、格差見直しを求める動きは若い世代の間に広がっている。利益政治には人種や宗教を旗印にするアイデンティティ政治に比べ分断を抑制する機能が期待されるが、同時に、格差問題に取り組む包括的な政策パッケージの行方にも注目したい。それは20世紀の歴史が示しているように、一筋縄では済まない社会を揺るがすような大きな出来事を伴うはずである。
(以上、情報誌「Voters」61号より)
情報誌「Voters」61号
明るい選挙推進協会HP
情報誌「Voters(ボウターズ)」一覧ページ
明るい選挙推進協会とは
明るい選挙推進協会は、全国の都道府県・市区町村の「明るい選挙推進協議会」を会員とした公益財団法人です。(元総務省自治行政局(旧自治省)所管))
明るい選挙推進運動の全国組織として、明るい選挙の実現を目標に、全国約8万人のボランティアの方々とともに活動しています。
全国のボランティアの方々は、各自治体に設置されている「明るい選挙推進協議会」の委員、推進員、協力員等として、各地域において「明るい選挙推進運動」を展開しています。
私たち「明るい選挙推進協会」は、これらの団体に冊子や啓発資材を送ったり、委員等の研修会を開催するなどの支援を行うほか、総務省、各自治体の選挙管理委員会と連携し、選挙違反のないきれいな選挙、投票参加及び国民の政治意識の向上等を図るための事業を行っています。
協会の沿革
昭和27年:「公明選挙連盟」(昭和27年12月財団法人化)
前田多門氏などの有志が、言論、実業、経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて結成。
昭和40年:「明るく正しい選挙推進全国協議会(略称 全推協)」(昭和42年8月財団法人化)
運動をより効果的に推進するために中心的原動力として発足
昭和49年:「明るい選挙推進協議会」
各方面からの要望により名称を簡素化
昭和51年:「明るい選挙推進協会」(昭和51年7月財団法人化)
(財)公明選挙連盟と(財)明るい選挙推進協議会が発展的に解散し合併
平成25年:「公益財団法人 明るい選挙推進協会」
公益法人制度改革に伴い、公益財団法人に移行
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 – 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家、実業家、文筆家。
大阪府出身。喜兵衛の長男[1]。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり[3]、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。
1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、1943年新潟県知事など歴任。
1945年(昭和20年)貴族院議員となり(1946年(昭和21年)6月25日まで在任[4])、東久邇宮内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが公職追放となった。1946年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。
財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。学外では内村鑑三の聖書研究会に入門、新渡戸と内村から多大なる影響を受ける。晩年に新渡戸と同じくクエーカー[※]に入信。
[1]『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)より
[2]越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』平成23年(2011年)169-170、192-193頁。
[3]畳の旧字体「疊」は3つの「田」の下に「宜」があり、後藤はこれをもじって「田」の字を名前に含む永田・池田・前田の3人に市政を任せれば「宜(よろ)しい」と称した。越澤、同上、193頁。
[4]『官報』第5836号、昭和21年6月29日。
[※]クエーカー(Quaker)は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(キリストゆうかい、Religious Society of Friends, フレンド派とも)に対する一般的な呼称である。友会は、17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。
一部「wikipedia」より引用/2021.5.10
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