瀬戸内の水運5 中・近世山陽道
縄文時代から続く津之郷谷と松永湾を結ぶ陸路は、後に中・近世山陽道の一部となります。
古代、律令国家によって整備された大道 古代山陽道は、現在の県道下御領新市線の辺りといわれています。ほぼ真っすぐ東西を走っていますが、これは道を直線にすることを優先したからです。そのため周辺の環境に関係なく整備しており、発掘調査を行うと神辺町より西側で水が湧いたり河川跡が見つかったりします。当時は道路に水が溜まるなど維持管理が難しく、通りにくいこともあったでしょう。
一方、技術の発達により水運の重要性は増していきました。そこで井原から神辺に入った山陽道は不安定な道を外れ、芦田川を渡り一気に南下します。津之郷から松永へ冒頭の道を通り、さらに西の尾道へと港をたどるルートに変化したのです。福山藩初代藩主水野勝成もこの中・近世山陽道と水運の交点を重視し、現在の地に城を築きました。
後に道沿いの港は芦田川を始めとする河川の堆積によってその機能を失います。しかし国家の大事業として整備ありきであった古代山陽道とは反対に実用から転じた中・近世山陽道は、港が鞆に集約された後も長く使われました。
かつてこの地の人々は自然環境の変化に柔軟に対応し、道を変え、港を移し、瀬戸内の輸送を支えてきました。これが現在まで続く本市の発展の最大の要因であったことは間違いなく、その実態をさらに解明していくことが重要です。
中・近世山陽道 山手の一里塚
山手の二本松
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